「地獄に行く」って聞くとどう思いますか?

こんばんは、satoです。

私は自分のいるとことが摂理だということを知る前に摂理に関して「摂理がカルトだ」と書かれている情報をネットで見ました。
しかし、そのまま摂理を離れることなくずっと今まで摂理にいます。
そういう私なので、摂理の御言葉を聞きながら時たま「これってどうなんだろう?」って心に引っかかっていたことが何個もあります。

その一つが「○○を切らないと地獄に行く」という風に「地獄に行く」とか「天国に行けない」とか、そういう言葉です。

突然「このまま生きると地獄に行く!」と言われたらあなたはどう感じますか?
こういう言葉を聞くと、大抵の人は「怖くなる」し、「不安に感じる」と思います。
特に日本人は死後の世界とか見えない霊の世界に関する知識があまりないので、より一層不安になりますよね。

実はこういう言葉、多くの宗教で言われています。
それは宗教が「見えない世界について教える」ためのところで、死後の世界の悪いところこそが地獄なのだから、ではあるのですが…。
「その言葉を聞いて不安にさせて、目的を成そうとする」ところは結構多いと私は感じています。

たとえば、いわゆる「霊感商法」は次のような流れで進んでいきます。
何かしらの問題にぶつかっている、悩み事を抱えている人がいたら、話を聞いてあげて

「あなたが今不幸なのは、(霊的なこと)が原因だ!」

と話すのです。()の中に入るのは大抵前世の生き方か、先祖の罪か、なのですが。
こう話すと普段なら「なんやねん!」って無視する人も、問題にぶつかって疲れているところもあるので「…本当かな?」と不安になります。
そうして不安になっている人に、「これを使えば/これを聞けば/これを買えば」解決する!って話をします。
大抵、その解決法を使うために法外なお金を要求します。
もしそれを払ったら、ひとまずやってあげ、「完全に解決するには…」とまた要求していくのです。
こうすることでお金をどんどん取っていく…という流れです。

霊の話をするところの中には精神を不安にさせておいて、自分たちに依存させることで自分の意のままにしよう、というところが多いです。
それで正常な判断ができないままお金を取ったり、犯罪行為をさせるところは完全なカルト団体ですが、そうでなくても「戒めのため」とか「悪さをしないために」とか、そういうことで地獄の話を出すところもあります。つまり、「地上の生を良くするための有り難い説法」という感じです。
こういういい話をすることでお金をもらおう、あるいは信者を増やそう、というところも結構多いです。

ところで、そもそも「困った人を助けよう」と本気で考えている人が「助かりたければお金をよこせ」っていうんでしょうか?
基本的に何かを話すときは「目的を果たすために」するので、必ず最後には「目的を果たすため」の言葉が出てきます。
もしお金の話が出るのだったら「お金を得ること」が目的なのです。
もし信者を増やしたいなら、「とにかく信じなさい」と話すでしょう。
そういう意味で「救われたければ何をすればいい」と話すところに、その場所の本質が表れていると私は感じます。

もう少し考えてみます。
もし仮に「何かしらの方法(それが高額の商品を買うとか、信じることとか)」でその状況から救われたとしましょう。
それでも、もし自分が「どうしてそのような状況になったのか分からず、自分の生き方が変わっていない」とまた同じ落とし穴にぶつかり、問題が起こると思いませんか?
そう、実際何かしらの外的な手段で問題を解決できたとしても、それは一時的なものです。
本質的には「自分が自力でその問題を解決できる」ようになっていないと問題の解決にならないのです。
これはちょうど途上国の支援のためにたくさんのお金や物質を与えるだけだと本人の力がないから結局生き残れないのと同じです。
知識を与え、自分自ら働けるようにし、自分で発展できるような状態になってこそ途上国から抜け出せます。
これは、個人の問題においても変わりません。

人生の問題もそうです。
「何かを信じる」とか「何かを持っている」だけで解決できることではなく、知るべきことを知り、すべきことができるようになってこそ本当に解決したといえるのです。
したがって、本当にその人を助けようとする人はまず「知識を教え、どのように行なえば抜け出せるのか」を教えます。
しかし、多くの宗教でこの辺りを突っ込むとはぐらかされたり、「そんなこと言うと地獄に落ちるぞ!」と言ったりして知識を教えようとしません。
それは単に「知らないから」教えられないところもあるし、あるいは「知れば不安にならないから、従わなくなる」と考え教えないところもあるでしょう。
いずれにせよ、こういう「霊的なことについての知識」を突っ込むとぼろが出ることもあります。

こういうことを踏まえて、摂理ではどうだったかを考えると、少なくとも「こう生きないと地獄に落ちる!」と言って御言葉を聞かせるとか教会に行かせるということはありませんでした。
摂理の御言葉を聞いている人の中で「この御言葉を聞かないと地獄に落ちる!」って言われて聞き始めたってことはないと思います。あくまで私の知る範囲で、ですが。
それはどうしてか、というと神様はそんな風に人を従わせたくないからです。恐喝じゃないですか、「地獄に落ちるぞ」って言って御言葉を聞かせるなんて…それはやくざとかのすることです。
神様はもっと人格的で、私たちが「愛で、自ら喜んで」することを願われ、そのようにできるようにたくさん愛を与えてくださいます。
したがって、摂理の人は基本「相手に愛で良くする」ことを最初にします。愛を与えることから神様がされたから、私たちも愛を与えるのです。

そうして、今の限界から越えられるように、どうしたら天国に行けるのか一つ一つ細かく教えてくださいます。
どうして私たちは生きているのか、霊の世界はどのようになっているのか、問題を解決するためにはどうすればいいのか…等々、本当に細やかに、です。
そうして「自分たちが分かって神様に従い、天国に行けるようにする」ことこそが、神様の願いであり、主の願いです。

こうやってすべてのことが分かった段階になって初めて、「こうしないと地獄に行く」って話が出るのです。
それは神様が本当に地獄に行かせたくないから、強く話さざるを得ないという心情なのです。
何も知らないと「怖がらせて神様のいうことを聞かせようとしている」と誤解されそうですが、実際には「本当に地獄に行く」から「気をもむ心情で」話すのです。
ただし、このあたりのことは正直「何の知識もなく、感覚もなく」聞いても分からないです。事実、私も摂理に来てからそのように誤解しましたからね…。

摂理の言葉を世の中の感覚で聞くと誤解することが正直多いです。
だから、言葉の表面上だけを見ないでその背景まで分かって判断してほしいと願っています。
そうでないと、「誤解したまま終わってしまう」という悲しいことになりかねないから…。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。