「実体」と「虚構」の狭間で葛藤し、超克する。

こんばんは、satoです。

私はマンガがとても好きでした。特に異能バトルモノ。
それは単純に「読んでて楽しかった」からです。子供の頃、といいますか、摂理に来る前はほとんどずっとマンガを読んでいました。

また、小さい頃からずっとテレビを見ていました。
実家は寝る時以外はいつもテレビが付いていました。その理由は定かではありませんが、私は付けているテレビをずっと見ていました。これは親から聞いた話ですが、私が物心ついた時から「自分からテレビをつけてじっと見続けていた」そうです。
見たいものがあるから、というよりそれが「習慣」となっていました。テレビが付いていたら見る、という習慣に。

マンガを読んでいると、現実を忘れてしまいます。マンガの中の世界に没頭して、いつの間にか「マンガの世界の中」にいるような感覚に陥ります。それくらい、私はマンガに没入してしまいます。
また、学校に行ってもいつもマンガのことばかりが思い出され、現実世界のことも「一つのテレビ番組」、「一つのマンガ」のように見ていました。そして、その世界に自分がずっと入っていました。
いうなれば、私は空想世界の住人でした。

その反面、現実にある喜び、楽しみ、感動はあまり感じられませんでした。
そもそも人と接していて傷ついてしまい、心を閉ざしていたところはありましたが、それ以外にもマンガやテレビに脳が慣らされていたからなのかもしれません。
それで、摂理に来る前は「現実感」が感じられず、何に対してもやる気が起きませんでした。
摂理に来てからも「現実感」を感じることができなくて、非常に苦しかったです。それが、ネットで見た情報を鵜呑みにしてしまった原因なのかもしれません。当時の私にとっては「テレビ、マンガ、ネットの情報」の方が現実味があったから。
また、何か楽しいことがあってもそれを感じた後にすぐにマンガを見てしまい、その感覚を維持できていませんでした。

最近、摂理の御言葉で「実体の歴史」という単語が出てきました。
この単語の反対は「観念」です。つまり「頭の中にだけ存在する」ものということです。言い換えると「虚構」となります。
この単語で言うと私は「観念」の世界で生きていたことになります。だから、「実体」というものがよく分かりませんでした。
しかし、摂理に来て足りないなりに祈って、御言葉を読んで、それに従って考え、行なう中で、少しずつですが「実体」というものが感じられるようになりました。

目に見えるものが「実体」でしょうか?
実はそうではなく、「目に見えない実体」というものがあります。それが「」です。霊は(時たま見える人はいますが)大抵の人は見えません。しかし、実際に祈ってみたり、御言葉を読んで、それにしたがって考え、行なうと確かに「実感」が湧きます。

実際感じてみると、実体のほうが「虚構」より数百倍楽しいし、喜びが数百倍長く保たれるんですよね。

たとえ肉が行なって喜びを感じたとしても、その喜びがすぐに消え去ってしまうなら、それは「虚構」とあまり変わりがないじゃないでしょうか?
…もしかすると、私も世の中の喜びの虚しさを感じていて、だからこそ「虚構」の世界と区別が付かなかったのかもしれません。
しかし、実体の楽しさ、喜びも「心を開いて、考えて」こそ維持されます。

現実に行なって得られる楽しみ、喜び、感動。あるいは悲しみ、怒り、苦痛。
それは、虚構に比べて遥かに刺激の強いものです。虚構に慣らされていた私にとっては非常に、非常に苦痛を感じる時もあります。
しかし、それは「今まで暗闇で過ごしていた人が急に光のある世界に出てきた」時に、最初眩しく感じられることと同じだと考えています。

これを書いたのは2015年、摂理に来て6年が経った頃ですが、それからおおよそ9年経ち実際に経験することが増えてきて、今では「実感が湧く」喜びが増えてきました。しかし、空想から抜け出したかというとそうでもなく、漫画やアニメといった「空想世界」から実体的に喜びが来ることもあります。ここまでくると、ある意味では私の個性、と言えるものかもしれません。
同時に「自分自身が作り出した空想」そのものだけでは虚しい、刺激が少ない、ということもわかってきて、推し活でもそうですが、空想世界を介して神様が助けてくださる、その経緯が実体となって積み重なってきたのかなと思います。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。