摂理の賛美で涙が出るとき。

こんばんは、satoです。

今朝賛美しているときに、ふと涙がこぼれました。
私が賛美していたのは「これ以上出来ない条件」というものでして、その中の

「これ以上ない条件で 大きな愛で
私 生き返った」

というフレーズを歌ったときに、こみ上げるものがありまして…。

ここ最近私は信仰がガクッと落ちていました。どれだけ落ちていたかというと御言葉を聞いても受け入れられず、賛美をしても心が重く、祈ってもうまく疎通できず、生活の中でもうまく行動できず…という問題だらけの状態で、この状態に陥ったのは本当に久しぶりというほどでした。
特に、長年の条件が崩れたこともあって、そのショックが本当に大きかったのです。
そんな私ですが、自分の根本的な問題を祈りで解きながら、少しずつ回復傾向に向かっています。
御言葉を読み返すと、結構自分の認識が間違っていたことが多かったことに気づきます。それを修正していったら、少しずつ信仰の状態が回復していきました。
現在、祈りにおいては生活のことと自分の間違っていた主観について祈っています。それ以外にも祈っていますが、自分のことについてはこれがメインです。
そうしていって、少しずつ天と疎通していったときにこのフレーズを歌ったので

「あぁ…本当に私は生き返ったんだな。
天の大きな条件で、大きな愛で生き返ったんだな」

と天の愛を感じて、思わず涙が出ていました。

摂理で賛美をしながら涙を流す、ということは誰でもありますが、その頻度は人それぞれです。
私の場合、賛美をしながら嬉しくなる、喜ぶ、楽しくなる、ということはあっても「涙を流す」ということは割と少ないです。
私が記憶しているのは、私が明け方祈っているうちに天の心情を感じていたときに、同じような心情を歌う賛美を歌ったとき「あぁ、本当にそうだ…」と泣いてしまったことが一度あるくらいです。

賛美をしながら涙を流すとき、というのは共感しているとき、天と出会っているときであることが多いです。
祈りや実践をした後、そのことと一致する内容の賛美、御言葉を聞くと「天が私を見ている」と言いますか、「本当にそうだ」と感動して、涙が流れるのです。それは喜びの涙であったり、悲しみを共感する涙であることもあります。
ちなみに、賛美をしながら嬉しくなったりすることも「天と出会っている」からなのですよ。

本当に久々だったので、ちょっと戸惑いました。
まだ、天の前に思い切って出ることをためらう気持ちもあります。
それでも少しずつ前に出ている感じはあるので、続けて一歩ずつ近づいていきたいです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。