行き詰まった時には、心を空けて祈ること。

心がうまくコントロール出来ない時に…。

こんばんは、satoです。

次元を上げて行ないなさい、という御言葉が続いていた時。
私はかなーり停滞していました。
急斜面を登るときに力をもっと出しなさい。という御言葉に対して、そもそも「急斜面を登ろうか…つらそうだな…」と葛藤していたわけです。
自分の足りないところというのが生活全般で、生活全体を直すことがあまりに大変そうだし、その中には過去やってみて挫折したことも含まれているので、その葛藤がもっと強かったです(´・ω・`)

あと、以前話したように世界の情勢について祈ることについても少し苦労していました。祈ろうと思う考えはあっても、なかなか切実になれないことが続いていました。
そんな時、私はある方法を使って、この状況が改善されました。

それは、自分の視点でなく神様の視点で考えることです。
神様がどのように世界を導こうとしているのか、どういう世界になってほしいのか、その心情を考えながら、今の状態を神様がどう思われるのか、それを感じ取りながら祈りました。そうしたら、少しずつ自分の祈りが切実に、熱くなったし、神様との疎通ができるようになって来た感じがしました。

摂理の御言葉は究極的には神様の心情、想いを伝えるためにあります。
御言葉を聞くと、神様が何を考えているのか、どう思っているのかをよく知ることができます。なので、御言葉に従って考えると自然と神様の想いと共感できることが多くなります。その先にあるのが心情です。
心情とは言葉で表現できない、最高に疎通した段階で感じられるものです。
心情を感じると、自然と共にするようになります。

私の場合は摂理で御言葉をたくさん聞いて、色々行なって、祈って、少しずつ神様の考え、想いというのが分かってきました。それで、世界のために祈るときにも少しずつ切実になるようになったのです。

しかし、これは私のようにたくさん御言葉を聞いていない人でもできることではあります。
そのために必要なのが、自分の考えを空けることです。
自分の感情やこだわり、考えを一旦置いて、とりあえず「神様はどういう気持なのだろう?」と考えること。そうすると、最初は何も感じられないように思うかもしれませんが、少しずつ少しずつ神様が話しかけている言葉が聞こえてきます。(実際の声というよりは心の声ですが)神様は常にあなたに語りかけているからです。

私の場合は、先の「生活を全く変える」ことに対して「少しずつやってみなさい」という言葉が聞こえました。そう、以前悟ったように、少しずつ行なうことです。急斜面を登るにしても、一歩ずつ。

心を空けて、神様に告げること。それはあなたと神様をつなぐ最初の一歩です。

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。

口語訳聖書 マタイによる福音書11章29節

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。