摂理の礼拝。~礼拝は神様と愛し合う時間だ。~

こんばんは、satoです。
今日は「礼拝」について語ります。
礼拝と聞くと皆さんはどのようなイメージを持つでしょうか?
教会で祈って賛美して、なんか神霊な雰囲気で…。
でも、御言葉の時間になると寝てしまう(笑)(これは特にミッション系スクールに通っていた人が話していました。基本礼拝は全員参加なため、信仰を持たなくても参加せざるをえない。それで、御言葉がつまらないと感じるのでしょうか。)
これが私のかつてのイメージでした。
私は教会の「なんか神霊な雰囲気」がとても好きで、それだけで十分癒されそうでした。
なんせ、「日常と異なる」世界が好きですから。(同様のことは実は神社でも感じます。)
ただし、それはあくまで私の頭の中のイメージであって、実際に行くとそこまで感じない気も(笑)
しかし、しかしです。
私は次のことを声を大にして話したい。
「本当の礼拝を捧げた時、命が生かされるのだ」ということを。
先週まで、私は壁にぶつかっていました。端的に言うと「自分の怠けの体質」によってすべきことがたまり続けてパンクしそうでした。さらに、今週の御言葉はとても深いもの。その話を聞いて、御子の心情を正確に悟るために、私はいつもより精神を引き締め御言葉を聞く準備をしました。
いつも行うことも、賛美も、一つ一つ気を引き締め。
心をこめて、目の前に神様を迎えると思って。
そうすると、賛美が御言葉と繋がり、先生と繋がり。
深い心情を持って伝えられた御言葉を少しずつ理解できるようになりました。
そして、礼拝が終わった後、私の心にはある決心が芽生えたのでした。
「もう一度、最初からやってみよう。丁寧に、一つ一つを行おう。」と。
それから、私の生活が少しずつよくなりました。
生活の中で感謝できるようになり、神様の働きを感じられるようになり。
否定的な考えが少しずつなくなり、生活を楽しめるようになったのです。
もちろんまだできていないところはあるけれど。それでも、できたところもあるから。
できていないところは明日やってみよう。できたことを喜ぼう。
そうして、少しずつですが生活の楽しさを取り戻せるようになりました。
私の心が、行いが、そして霊魂が生き返ったのです。
礼拝は、神様と深く愛しあう時間だ。
そう、鄭明析先生がおっしゃっていたことを思い出します。本当にあの礼拝の時間は、神様の愛を深く感じ、「御言葉と真摯に向き合うこと」によって、私もまた神様と深く愛しましたから。その愛で私は生き返ったんだと悟りました。
そして、あの礼拝のようにこれからいつも深く通じ、愛の力を受ける礼拝を捧げていきたいです。
そのためにも、生活で主を迎えよう…。私たちの生活はいつも礼拝なんです。万物も私たちも、神様が作ってくださった創造目的通りに栄光を帰し、神様がそれをご覧になって創造の過程を振り返り、喜びながら次の構想を立てる。それが、本当に神様が望まれる礼拝だから。
ヨハネによる福音書4章19-24節
女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。 わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。
イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。