「やればできる」という摂理の御言葉に隠された「霊の力」

「できる!」という考えと認識は、果たしてどこから出てくるのか?

こんばんは、satoです。 

「やればできる」というスポ根のように聞こえる摂理の御言葉。
しかし、できるという考え、認識を持つと脳が実際にそのことをやろうと動くということを自分でも経験して、「考え方によって、脳の動きが変わるんだ!」ということに気づきました。

しかし、疑問が…。
じゃあ、どうやったら「できるという認識」になるんだろうか?
ここが解決されれば、自分がすべきこと、例えば勉強とか研究とか仕事とか趣味とか…すべてできそうですよね!

今日は、ここについてもう少し深く考えてみました。

人はどういう時「できる」と考えるのか

まず、人はどういうときに「できる」と考えるでしょうか?
一番は自分が実際にやってみてできたことに対しては「できる!」と考えられるでしょう。また、初めてのことだとしても過去の経験や能力と実際に行なうことを比べてできそうだったら「できる!」と考える人も多いですよね。

たとえば、私が「wordpressのソースコードが読めるんじゃないか?」と思ったのも、研究関連でプログラムを幾つか自分で組んだことがあって、見慣れていたこともありますし、今までも「見たとおりにやればできた」り「一つ一つじっくり読めば分かる」という経験を数学の勉強やパソコンの問題解決を通してしてきたから、ということもあります。

しかし、一方で。
同じような経験をしているし、能力も十分あるにも関わらず「出来ない」と考えてしまう、認識してしまう
ということもまたよくあります。これは「否定的な条件」を見てそう認識してしまうのです。

以上のように、人は条件付きで「出来る」「出来ない」を決定することが多いです。

「無条件」できるという認識

ところが、今までできなかったことに対して、何の条件もないのに「出来る!」と認識するということがあります。
今まで誰もできなかったこと、できないと考えていたことに対して「自分はできる!」と思って諦めずに最後まで挑戦して成し遂げた…という話はよく聞きます。近年だと青色ダイオードの開発の経緯ですね。

私も、このような経験をしました。

先述しましたが、私は最近研究関連でプログラムを幾つか作っています。
しかし、私はつい一ヶ月前までプログラムについて「出来ない、やり方がわからない」状態だったのです。
計算ソフトの解説書を読んでも、そのやり方をそのままできるけど、全く応用できない。そのため計算をすることもできませんでした。プログラムを作ることなど到底不可能な状況だったんです。

ところが、ある時指導教官から「satoは計算ソフトができますか?」と聞かれた瞬間、私の心に何故か強く「出来そう」という感動が来て、「はい、出来ます」と答えていました。
そうしたら、その次の日から構想が少しずつ浮かび、計算ソフトの解説書を読んだら幾つかの関数の組合せでできることがわかり、どうしてもわからないところは知り合いの詳しい人に質問しているうちに、目標としていたプログラムを完成させることが出来ました。

そう、出来ない状態から「何の条件もないのに」強く「出来る」という認識が現れたのです。

あのときの心の動きはまさに「感動」というに相応しいものでした。

出来る、という根源にある「霊の力」

ここで、摂理の御言葉を少し話します。

人間には肉・考え・魂・霊の4つがあります。ということを摂理では教えてくれます。
今回はこの内「霊」に関して話をします。

まず、次の聖句をご覧ください。

神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。-出エジプト記3章14節

神様は「有って有る者」、と書かれています。
余談ですが、この有って有る者というのが「ヤハウェ」とか「エホバ」という言葉の意味です。

この言葉の意味は「何の条件もなしに存在する」という意味です。
人は空気や水など様々に存在するために必要な条件があります。そもそも、親が結婚しなければ私は存在できないし、住む家がなければ、今の北海道では凍死してしまいます。
万物も同様に存在するために条件が必要です。それが「物理法則」ですよね。

ところが、神様は「存在するための条件」がない、ということが書かれています。
つまり、神様は条件なしに存在する、すべての根源者ということなのです。

「条件なしに」という単語…先程も出てきましたね。そう、神様の認識・考えは「無条件出来る」なのです。
それは人間と違って、神様には物理的な制約がない、全知全能なので数多の方法を持って出来るからです。

そして、神様はの存在です。言い換えると、人間の霊は神様と同様の性質を持っています。

ここまで話すとピンとくる方もいらっしゃるかもしれません。
無条件出来る、という認識・考え・感覚は実は「霊から」来るもの、霊の力なのです。

霊が活発になれば、多くのことが出来る

ということは、霊が活発であるほど、できるという認識が強くなり、多くのことができるようになると言うことができます。

実際、私がプログラムを『出来る!』と思っていたのは、元をたどると「自分のすべきことをしながら、お祈りをしっかりしていたときに問題が解決した」ことがきっかけです。この自分のすべきことをする、祈るというのは「霊に力を与える」ものです。

自分の霊というのは「神様の御言葉を守る」ことによって作られ、生きるようになります。
それは、霊の性質として「神様と近づくことで作られる」というものがあるからです。神様の御言葉は霊が生きるルールなのです。それ故、「神様と対話する」祈りや「神様の思いに答える」実践をすると霊が神様の愛を受けて成長します。

そうすると、精神もしっかりし、肉体も治めることが出来ます。これも実際、私が摂理に来て多くの歳月を経て実感していることです。
お祈りをしっかりしている時や、御言葉をブログを使ってまとめたあとに、研究で詰まっていたところが不思議と見つかったり、計算方法が分かったりする、ということがありました。また、精神的にも以前より安定しているのを感じます。まだブレは大きいですがね(;´∀`)

以上のことをまとめると、「やれば出来る」という言葉の裏には

御言葉を聞いて実践することによって

霊の力が増し

できるという認識が強くなり

脳が作動して

実際に肉でも出来なかったことができるようになる

という流れがあるのです。そう、一番最初にすべきは「御言葉を聞いて実践」なのです。

その中でも一番すべきなのが「祈り」です。

祈りによって「神様と対話」することが一番実践しやすいことなのです。対話ができないなら、まずは「呼ぶこと」からですね。

対話して、霊の力を受ければ「自然と」出来るという認識になり、やれば出来る。
それこそが「やれば出来る」という摂理の御言葉に込められた意味なのではないか、と考えます。

というわけで、私も今から神様と対話して、年末に残った多くのすべきことを頑張って行います\(^o^)/

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。