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礼拝の献金に対する意見箱

礼拝の献金に対する意見箱

献金はまごころ

皆さんこんにちは☆Yoです^^

皆さんは神社やお寺で、お賽銭やお布施などしたことはありますか?

お正月など、よくお賽銭を投げて、カランコロンと鈴をならして、パンパンと手を叩いてお願い事をしていたりしませんか?^^

一般的にキリスト教の教会では、献金箱という箱が置いてあり、各人の裁量に応じて、献金してもしなくても、ひとまず献金というものが有ります。

 

献金と聞いて、ある人々は「え?お金を集めるの?」と、「お金」をとられるという感覚で聞こえてしまい、「献金」を正しく理解できずに誤解してしまうことが多いようです。

献金とは、いったい何なのでしょうか?

献金は、強要されるものなのでしょうか?

お金に関するお話は、とても大切なお話しですので、しっかりと理解しておかなければなりません。

 

聖書には、献金に関して、次のような聖句が有ります。

『イエスは目をあげて、金持ちたちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。』

(新約聖書:ルカによる福音書21章1~4節)

 

皆さん、お分かりでしょうか?

献金をどんなに多額にしたとしても、あまりある中から、ちょっとだけと思ってしたものは、献金としてみなされることはなく、逆に、ものすごく貧しい方だったとしても、神様の働きを真実に理解し、認識し、感謝して自分の持っている生活費すべてを捧げても惜しくないという心からの献金が、真実の献金として受け取られるということです。

 

すなわち、献金は、形だけのものは真実な献金として神様には受け取ってもらえず、どんなに小額だったとしても、100%の感謝、まごころで捧げる献金であれば、神様が受け取ってくださるんだということです。

 

そして、献金は実際には教会の備品や運営など様々なところに用いられるようになりますが、その献金の恩恵を受けるのは、献金をしたご本人自身なのです。教会を使うのはご本人なのですから^^

 

人間はいくら献金したかを見てしまいそうになりますが、神様は、献金の額よりも、二レプタを入れた婦人のように、真心から真実に捧げているのか、その心をご覧になり受け取られます。

 

献金について、正しく理解し、感謝の心で捧げていきたいものです^^☆

 

献金の感想

Boa tarde☆Yoです^^

今日も新しくする時間がやってきました☆

「Boa tarde」

読み方は「ボア・タージ」

毎日、毎日、新しくしようと思うと、新しくできるものですね。

意味は、「こんにちは」です^^

さて、どこの国の言葉でしょうか??

 

答えは

 

ポルトガル語です!

Yoが生まれた長崎の街は、ポルトガルやオランダと大きな文化交流をしていました^^

「ボア・タージ」

初めてのことも、どういう意味なのか正しく理解すると、よく分かるようになります

 

今日は、摂理の礼拝で捧げられる「献金」について、お話したいと思います。

献金

皆さん、耳慣れない言葉ですよね。

「現金」

は、耳慣れている言葉でしょうか??^^(苦笑)

お金って、私たちにとって、とっても大切な価値が有りますよね。

だからこそ、気にもなるし、耳も自然と大きくなると思います。

道端で歩いていた時に、チャリンと音がした時に思わず振り返ってしまうあの瞬間。

いやぁ、お金って、人の心を動かしてしまうくらい、影響力があるんですよね^^

その、大切なお金の話、「献金」のお話しです。

 

実は、もともと、日本には「献金」の習わしが旧くからあります。

身近なところでは神社の「お賽銭」です。

お賽銭

お賽銭

毎年、多くの方が進学、就職、結婚、出産、厄除け等々、様々に神社でお参りをし、お賽銭箱に「お賽銭」を投げ入れて、からんころんと鈴を鳴らして、お願い事をしたりしていると思います。この「お賽銭」も「献金」なんです。

また、お寺の檀家さんが、お寺の和尚さんに供え物やおすそ分けをお渡しするのも、いつもお世話になっていますと、感謝の心を表すために、贈りものをしたり、または、という意味で、いくらか包んでお渡ししたりしています。これも、「献金」なんです。

実は、皆さん生活の中で普段していることなんです。

それを、キリスト教の聖書の言葉で表すと、「献金」という言葉になります。

聖書の、ある個所には、「献金」に関するエピソードが記されています。

 

聖書の本文をみてみましょうか。

ある時、イエス=キリストが「献金」について話しをされたことがありました。

『イエスは目をあげて、金持ちたちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て、言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの夫人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。』

(新約聖書:ルカによる福音書21章1~4節)

 

貧しくても生活費すべてを入れた

貧しくても生活費すべてを入れた

皆さん、どう思いますか?

献金」って、たくさんの額をすればするほど良いんじゃないの?って考えませんか?

Yoも、初めはそのように考えていました。

また、「無理やり」献金しないといけないんじゃないの?

と思っていもいました。

 

しかし、その考えは完全に打ち砕かれました。

考えを打ち砕かれる(イメージ)

考えを打ち砕かれる(イメージ)

 

イエス=キリストの御言葉を良く読んでみると、お金持ちが投げ入れた献金よりも、夫を亡くして貧しく暮らしている女性が投げ入れた献金の方が、たくさん献金したと書いてありました。

これは、どういうことを意味しているんでしょうか?

 

少し、一緒に考えてみましょう。

献金」を受け取る対象が誰なのか、皆さん分かりますか?

献金」を受け取る対象は、「神様」です。

しかし、「神様」は肉体を持っていない方であり、人間の用いる「お金」は、物質としては神様は使うことができません。すなわち、お金自体は、神様には必要ないんです。

では、神様に必要なのは何なのでしょうか?

神様は、献金を捧げる人の献金の額ではなく、捧げる人の「心を見られる」

と言われています。

即ち、神様は、「献金」を通して、神様に対する「真心」と「感謝」を受け取られるということです。

 

真心と感謝

真心と感謝

そうすると、捧げた「献金」は、物質的には誰が受けるのでしょうか?

礼拝の時に捧げられた「献金」は、教会の維持運営のために、不正なく、教会に必要な備品等の購入に使われたりします。

すなわち、「献金」をして、その献金を恩恵を誰が物質的に受けているのかと言うと、「献金」を捧げた自分たち自身が受けていると言う事です。つまり、すべて自分に返ってくるということなんです。

そして、献金をして返って来る恩恵は、自分自身が「真心」を込めて捧げた「献金」の数倍、数十倍、数百倍になって恩恵を受けるようになる。と言われています。

実際に、「真心」から「献金」を捧げた人たちは、仕事が予想以上にうまく行ったり、最年少で昇進、昇格したり、家庭が平安で栄えたり等々、「お金では買うことができない」とても多くの恩恵を享受している方々がいっぱいいらっしゃいます。

かくいうYoも、社内最年少で営業成績NO1を達成し、社内最年少で全社営業統括室長をさせて頂くようになりました。もはや、自分の持っている力を超えて、経済的な恩恵を享受していることを、認めざるを得ません。これも、「献金」の恩恵の一つです^^

 

ですので、「献金」の額は、特に関係ないんです。

大切なのは、神様に向かう、「真心」と「感謝」なんです。

「真心」を受け取られる「神様」なんです。

 

私たちも、生活の中でよくお歳暮等、「つまらないものですが、気持ちです。」と言って、何か贈りものをしていますよね。人間同士でも、「気持ち」が大切なように、「神様」にとっても大切なのは「気持ち」であり、「真心」なんです。

そして、鄭明析牧師は、『「献金」できるお金が、ある事情のために無い人もいるから、そういう人は、「真心」を込めて、御言葉を実践して、時間を神様に捧げなさい。また、あなたの行ないを自分の考えではなく、御言葉のとおりに新しく行ないなさい。それが、「献金」をすることだ。』

と、おっしゃってくださいました。

 

私たちも、「献金」の意味を良くわかって、「真心」を届けるんだ。「気持ち」「感謝」を贈るんだ。という、愛の心が有って初めて、「献金」というものを捧げるようになります。そして、心が無く形式だけ「献金です」と言って捧げても、神様は、その心が無い形式だけの「献金」は、献金としてみなしてくれません。形だけであって、捧げる人の「真心」を受け取ることができないからです。この場合は、むしろ「献金しない」方がマシです。

 

私たちも、貧しくても生活費すべてを捧げた、やもめ女性の姿のように、「真心」、「感謝」を大切にして、「献金」の意味をはっきりと分かって、捧げたいですよね。

はっきりと分かって「献金」すると、栄えます☆

これが、「献金」の意味であり、価値です^^

 

献金 チョン・ミョンソク牧師の教え

雨ですね…
摂理の農業人が住む広島県では一部桜の満開を迎えました!
しかし、今朝から来週月曜まで続く雨で、桜が散らないか心配です(^-^;)
昨日、農業人の息子君は幼稚園の友達の家に遊びに行ったそうです!
新築の一戸建てらしく、かなり広かったと話していました!
農業人は早く家に帰れたので、息子君とお風呂に入りながら、質問をしました(^-^)/
農業人「広いお友達のおうちと、いまのおうちのどちらが良い?」
息子君は即答で「今のおうちが良い!」と。
農業人「広くなくても良いの?」
息子君「うん。」
農業人「どうしておうちが良いの?」
息子君「ブロックがあるから。」
奥様に聞いたら友達の家にもブロックはあったそうです(^-^;)
息子君は広くて、新しい家よりも今の家が良いと感じたのだと思います(*^O^*)
お金が全てでは無いのだなと…
大切なものはもっと他にあるのだなぁと感じました(^з^)-☆
その話を通してチョン・ミョンソク牧師の献金に関する教えを思い出しました!
聖書の中で献金について、記されている箇所があります!
ルカによる福音書21章
『21:1イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、 21:2また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て 21:3言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。 21:4これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。』
チョン・ミョンソク牧師は持てる財産の全てを神様の為に、命の為に捧げてこられました!
その中で不可能な状況を幾つも可能にされてこられました(*^.^*)
農業人も献金を捧げる中で、何倍もの祝福を主から受けてきました(^-^)/
逆に献金を惜しむとむしろ経済的に艱難がきました(;´д`)
チョン・ミョンソク牧師の実践される姿が自分にとって生きた教えとなっています(^-^ゞ

 

摂理と経済の恵み。~献金ってなに?~

こんばんは、satoです。
突然ですが、最近新聞では「政治家の不正資金」の問題がよく取り上げられています。本当はこういう記事で盛り上がらない方がいいのでしょうが…。
こういうのをよくよく見てみると
政治家がお金を個人的にもらった、あるいは個人的に渡した
ということが問題になっているわけです。しかし、政治家だって「一人間」。お金をやりとりすることがあってもいいのでは?なぜこれが問題になってるのでしょうか?
…ということで、私は「政治献金」について調べました。
参考にしたのは「公明党の公式サイト」です。とてもわかりやすく、本質を突いていた気がしたので。
簡単に話すと「政治家が活動するための支援を目的としたお金」が政治献金です。
そもそも、政治活動をするにはお金がかなり必要です。ポスター作ったりとか、選挙に立候補するためにも多額のお金を支払わないといけません。(この辺りは昔読んだ「クニミツの政」という漫画からの情報です。うろ覚えですが…。)
しかし、政治家は働く暇もない。それではそのお金をどう確保するのか?
それは…その政治家の思想に賛同した人たちが支援してくれることによってです。つまり、政治献金とはあなたの政治を成し遂げる助けにしてほしいという想いが込められたお金なのです。(理想的には。)
ところで、政治家は「中立性」を保たなければならないとされています。それは「どんな人にも平等に権利を与えて、どんな人もきちんと生活できる国にする」という目的には必要なものです。
そんな中、もし「政治家にたくさん支援する代わりに、自分達に有利な政治を行うことを要求する」団体や個人がいたとしたら…その政治家はどうするでしょうか?また、逆に「あなたたちに有利な政治をしてあげるから、お金を支援してくれ」という政治家がいたら…。
もし、その人たちの要求を飲んでしまったら、社会のバランスが崩れて大変なことになってしまいます。
だから、「政治家個人には献金しない」とか「団体は政党に献金する」など献金には厳格なルールを取っています。
しかし、現状は先ほど挙げた問題がよく起こっています。若干「ある政治家を引きずり下ろすため」に使われているところがある気もしますが…。
そして、そうやって得た資金を「政治活動以外」で使う…こういうことをしたら、「その人を信頼して献金した人たちの気持ち」を裏切ることになりますよね。
こうやって、今日新聞に出ている資金問題が大きく取り上げられているのです。
めっちゃ大雑把に書きましたが…。
献金というものの本質が「その人を助けたい」という気持ちがお金となって現れたもの、ということはなんとなくお分かりいただけたのではないかと思います。
政治の献金と同じく、教会の献金も「神様に感謝して、なにか返して差し上げたい」という気持ちが本質なのです。だから、「多くのお金を献金して自分に有利に…」というものは献金の本質から外れている、そういう献金は神様が受け取らない、と鄭明析先生は御言葉で話されました。
お金に流れるは「互いの信頼関係、思いやり」です。
お金は元々「契約」のための道具として作られましたから。
その本質を忘れずに、そして感謝してお金を大切に使っていきたいですね。

こういう聖句ありますよね。
マルコによる福音書12章41-44節
イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。
金額の大小ではなく、真心が肝心。イエス様の時代もそうでした。

 

真実と祝福

摂理に導かれる前は教会はもちろん、聖書の「せ」の字も知らなかった摂理の農業人・・・
大学4年生の時に摂理に出会い、聖書を知り、御言葉を学びました(^^)/
そして、晴れて日曜日の主日礼拝に初参加!!!
事前に教会の先輩から「献金」の存在について教えてもらいました。
最初説明を受けた時は、神社で言うお賽銭的なもの?と思っていました(;^ω^)
しかし、実際は全然違ったのですね・・・
神様の為に捧げた「献金」は、肉的には教会の維持の為や自分たちの救いの為に使われます♪
そして、霊的には神様が受け取って下さり、その何倍もの祝福を霊的・肉的にも下さいます!
結局、「献金」は捧げても、その祝福は私達に何倍にもなって返ってくるのですね(*´▽`*)
捧げた真心や献金は、私達の為に神様が使って下さるという事です!
捧げたものは捧げるだけで、返ってくるものではない!
その様に考えていた摂理の農業人には衝撃の真実であり、「献金」を通じて神様の深い愛を感じました(^◇^)
「献金」について、一つの証があります!
摂理の農業人の奥様の話です♪
摂理の農業人の奥様は結婚前はバリバリのキャリアウーマンでした!

なかなかの高収入だったそうです!
ですが、彼女は必ず神様への感謝を「献金」として捧げ、ボーナスの時にはまとまった金額を捧げていたそうです!
そしたら、もっと経済の祝福を受け、肉的にも栄えていったそうです!
奥様が結婚直前に、結婚の祝福に対する感謝献金をしたそうです!
摂理歴史の為に!と、かなりまとまった金額をしたそうです。
そしたら、捧げて半年以内に色々な人や会社を通じて、捧げた以上の金額が返ってきたそうです(^^♪
もちろん、金額が問題ではないし、見返りを求めて捧げては絶対にいけません!!!
大切なのは真実な真心と愛です!
捧げたものの数倍も祝福を与えて下さる神様に感謝です(*^-^*)
何よりもお金では買える事の出来ない、永遠を左右する主と御言葉を与えて下さる神様の愛に感謝します♪

 

この記事を書いたブロガー

Luck
マスコミ勤務のB型系SEです!
摂理に出会い、人生の本当の味を見つけました。
真理を学び続けて自分づくりに励む毎日☆彡
楽しい社会人摂理ライフを描写していきます(^^♪

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