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摂理がカルトと言われる理由を私なりに考えてみた

摂理がカルトと言われる理由を私なりに考えてみた

聞くところによると、摂理がカルト集団と思っている方はまだまだ多いようです。

摂理で信仰を持っている側としては、だれがカルトやねん!とツッコミを入れたくなるほど、カルトではないと断言したいくらいです。

しかし、一方的に私たちの観点からの主張をしても、大人な対応ではない気がするので、一般的に見て摂理のどのような点がカルトだと思われる要素になっているのか吟味してみる必要があると感じました。

ということで、私の独断と偏見ですが、摂理がカルトと言われる所以を整理してみました。

 

 

勧誘、伝道

伝道するという行為はよく思われていないのではないでしょうか。

伝道という行為は相手の意志に反している中で過度に勧誘するようなことがあれば、これは犯罪に当たります。

しかし、摂理ではあくまでも相手の意志を最大限に尊重します。

それは、摂理の中でも、結局のところ最終的な判断は本人の自由意志によるものだということを教えてくださっています。

だから、御言葉を学び信仰を持つことの提案や紹介はしますが、無理やりに引っ張ってこようということはありません。

もちろん伝道する側も人間ですから、紹介だけしたと思っていても、相手からしたら強制的に勧誘されたと思われるケースもあるとは思います。

 

 

でも、自由になるための真理、御言葉を教えてくださっている摂理なのに、なぜ強制的に信仰を持つようにするでしょうか。

たとえ強制的に信仰生活をしたとしても、自由とはかけ離れてしまいますし、摂理の教えからは外れた行為になるということ。

これでは矛盾ですよね。

実際に伝道された人ならば、強制的ではないと分かるはずですが、傍観的に見ると、伝道という一言を聞いたら強制的な側面が強いのではないかと思ってしまうんではないかと思います。

 

 

正体を隠した団体

厳密にいえば正体を隠しているわけではありません。

自分も伝道する立場になってから分かったことなんですが、なかなか最初から摂理と明かして紹介するのに抵抗がありました。

宗教に対して抵抗感の強い日本では、最初から宗教の活動をしていると言ったら、嫌な顔をされるのではないか

そういう思いが強くて、なかなか最初から明かすことはできませんでした。

心の底では最初から摂理と明かして話したいのはやまやまなんですが。

 

すごくこの気持ちをすっきりと書いてくださっている記事がありますのでこちらをご覧ください。

摂理の正体を隠した勧誘方法について

 

このような気持ち、意識を持って日々工夫をして世間からも信頼されるような行動をとっていきたいと強く願っております。

 

なんでも無料でやってくれる

摂理ではお金に関することはきっちりしています。

それは一般的にもお金に関するトラブルは絶えないから、神経質にならざるを得ないからです。

お金に関する問題を起こせば、兄弟の間でも軋轢が生じることだってあり得ます。

兄弟どうしで仲良くすることは、主が願われていることです。

少しでも兄弟どうしのトラブルがないようするためにも、兄弟どうしのお金の貸し借りすらも規制されているほどです。

お金を貸す側はおごるつもりで貸しなさいというくらい。借りる側はもちろん返さないといけませんよ。

 

 

それから、自身のお金儲けのための活動は聞いたことがありません。

御言葉を聞くことに関して、絶対にお金をとるようなことはないです。

普通の講演会とかレッスンとかだったら、1回だけでもかなりの金額をとられると思います。

それなのに、御言葉は無料で聞けています。

真に価値のあるものはお金では測れないということを物語っているようにも思えます。

 

 

人が優しすぎる・良い人すぎる

良い人、優しい人、これって一見素晴らしいことだと思うじゃないですか。

なんで良い人たちが集まっているのにカルトだと思うんだ!ってツッコミたくなるかもしれません。

しかし、摂理の活動に一般の方を呼んだ時の出来事で実際にそういうことがあったんです。

その方は、活動を最初から最後まで意欲的に参加していて、客観的にその方の様子を見ても満足されているような感じでした。

すごくポジティブな感想を期待して、いざ聞いてみると衝撃的なコメントを耳にしたのです。

 

 

それが、

「周りの人たちがすごく意識が高くて、めちゃめちゃ優しく接してくれてありがたかったです。良い人たちばかりで宗教団体なんじゃないかと思いました。

と。

この感想ではカルトとは言っていませんが、聞くところによるとこの人は宗教に対して悪いイメージを持っていたので、良い人すぎるという点も逆に怪しい団体なんじゃないかと思わせることもあるようです。

なんか悲しい世の中だなと感じてしまいました。

 

 

熱心な信仰者が多い

熱心であることは全然悪いことじゃないですし、意欲的であることは生きる力にもなります。

熱心の方向性が大事です。

犯罪的なところに熱心であれば止めるべきですし、慈善的なところに熱心であればむしろ推奨すべきです。

全員が熱心な信仰を持っている!というわけではないとは思いますが、摂理は比較的、宗教団体としては熱心な信仰者は多いような感覚はあります。

だからといって、反社会的な活動なんて一切しませんし、理解できないような行動もとりません。

常識的な範疇で、御言葉で磨いた思想と精神で社会に貢献しようと頑張っている人たちが多いような気がします。

 

 

過去に熱心な宗教団体が世間に迷惑になるような行為をしてきたというニュースが国内でたくさんありますから、信仰に対して熱心であればあるほど、「あの団体は何かしでかすんじゃないか」という心配になるのではないかと思います。

でも安心してください。

実際、摂理で信仰を持って7年が経とうとしていますが常識的な思想を持っている人格者たちばかりですよ。

 

まとめ

自分なりになるべく一般的な視点からまとめてみたつもりでしたがいかがでしたでしょうか。

的外れな点もあるかもしれませんがそこはご愛敬で。

 

 

まとめて整理して思ったことは、比較的良いことに対してカルト要素を結びつけているような印象を受けました。

とはいえ、カルトと思われている以上は変えていかなければならない部分もあるとは思います。

社会の中で活動している団体である以上、社会のため、世の中のための組織にしていくためには誤解は取り除かなければいけませんからね。

一方で、良いことをしていても、見た人聞いた人の考え方の水準によって変わりますから、人の目を気にしすぎて活動の制約を変更するのも難しい問題なのかなと。

 

 

宗教=カルトというイメージが日本人には強く根底にあるので、摂理で信仰を持っていると言ったら警戒されるのではないでしょうか。

このイメージが払拭されない限り、一般的に摂理がカルトではないと周知されるのは難しい問題だと思います。

しかし、これらのことを全部辞めたら、信仰を持っている意味がなくなるのできっと続けていくことでしょう。

かと言って、それで周りの人々が摂理への印象が変わるかといえば正直分かりません。

自分たちのやるべきことはしっかりやり続けていくことが証になることを信じ、摂理はカルトではなかったと認知される日がいずれ来ることを願うしか他ありません。

 

 

 

 

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