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鄭明析牧師による主日礼拝の御言葉♪その1

個性と才能の使命だ

[本 文] イザヤ書11章3節~9節
3)彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず
4)正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。
5)正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。 
6)おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、
7)雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、
8)乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
9)彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。 

マタイによる福音書25章15節
15)すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。
ハレルヤ!

永遠でいらっしゃる聖なる父神様の愛と御子の平安が満ちることを祈ります。
米、麦、大麦、稗(ひえ)、粟(あわ)、さまざまな豆、小豆など、<穀物>を見ると、見た目が異なるとおりにそれぞれ「個性」が異なります。その個性どおりに「形」も、「特性」も異なり、「味」も、「栄養価」も異なります。
このように、<人間>もそうです。
個人一人一人みんな「個性」が異なり、「形」が異なり、「才能」が異なります。自分だけの<個性と才能>があります。

<個性と才能>は「神様が各自にくださった特権」です。

<自分>は地球世界でたった一人だけの「個性体」として生まれました。
その土台の上に「才能」を発揮しなければなりません。だから、その「才能」を発揮する人も世界で自分一人だけです。
自分に属した個性と才能の仕事においても「自分」が王であり、「自分」だけができます。だから<自分の個性と才能>を「自分の希望と財産」にして、個性と才能どおりに行なって生きなければなりません。そうすれば成功します。
<個性>は開発するとおりに「さまざまな才能」を発揮するようになります。
世の中を手に入れて治めている人たちを見ると、みんな自分の「個性と才能」を一層開発して行ないます。だからそのセンターの仕事は他の人にはできません。
自分の個性どおりに一層開発すれば、自分が願っていることは必ず成功します。しかし最後までしなければなりません。
みんな今日の御言葉を聞いて、<自分の個性、才能、特性>を求め、見つけて、最後まで行ない、「個性の王」になることを祈ります。

 

計画したことを行なう前に、それによって他の問題が生じないか本当に確認して行ないなさい 

[本 文] マタイによる福音書25章1-13節

1) そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。
2) その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。
3) 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。
4) しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。
5) 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 
6) 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。
7) そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。
8) ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。
9) すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。
10) 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。 
11) そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。
12) しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。
13) だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。

人間が生きていく中でとりあえず急ぐからと言って『自分にとってよいこと』だけを考えて、『その一つのこと』だけを目的にして行なったら、『その問題』は解決するけれども、それによって『他の問題』が生じて、損をし、苦労もし、怪我もし、死ぬことも数えきれないほど多いです。
み んな過ぎた日のことを考えてみてください。目的地に行くこと一つのことだけを考えて速く走っていて、交通事故が起こって、一瞬にして重傷を負い、不具者に なることもあり、現場で死ぬこともあります。それから、戸を閉めること一つだけを考えて、左の指を置いたまま戸を閉めて、大怪我をしたり、建物を早く建て ること一つのことだけを考えて行なって、手抜き工事をして、建物が崩れて、人が死んだりもします。

このように、一つだけを考えて行なったら、その問題を解決しますが、他のことは小さい問題から大きい問題まで起こって、苦痛を受け、事故に遭い、死ぬこともあり、大きな害を受けるようになります。 
<聖書>を見るときにもそうです。肉的にも霊的にも「一つのこと」だけを考えて解いたら、「もう一つ」は損です。肉的にだけ解いたら<霊>が損であり、霊的にばかり解いたら<肉>が損です。人間には<肉>もあり、<霊>もあるので、いつも「二つのこと」を考えて、信じて、行わなってこそ、肉も霊も損なく、よくなり、栄えます。
絶対者神様の法則は「主体と相手」の両面性です。どんなことをしても、「一つの面」だけがあるのではなく、「両面」があります。だからいつも、「前と後ろ」、「陽と陰」、「善と悪」の両面を見て行なわなければなりません。また、人に接するときも「短所や長所一つ」だけを見て接するのではなく、「短所と長所二つ」を見て接してこそ、ミスを犯しません。
い つもしくじった後に、問題が起こった後に、害を受けた後に後悔するのではなく、まず計画したことをする前に、そのことを行なうことで問題が生じないのか必 ず確認してするべきです。そのようにしたほうが、むしろ早く仕事をした後にも甲斐があり、それによって得るようになります。

みんな「考えた一つのこと」だけを見て行なったら絶対に駄目です。「考えられなかった他のこと」も見て行なわなければなりません。
今日の御言葉を聞いたから、とりあえずいいからと言って一つのことだけを考えて行なわないで、祈って、御子主に確認し、本人も研究をして、他のことも考えて行なって、うまくいき栄えることを祝福します。

自分を作った人は変わらず、永遠だ

[本 文] ルカによる福音書21章36節

これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。

コリント人への第一の手紙15章34節  

目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。

テサロニケ人への第一の手紙5章6節 

だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。 
ハレルヤ!

永遠でいらっしゃる聖なる父神様の愛と御子の平安が満ちることを祈ります。
<人間の心>は決心し、誓いを立てても、しょっちゅう変わります。その理由は、「環境」が変わるからであり、「決心し、誓いを立てたときのその感動と悟り」を忘れるからです。  

例 えば、相手と一緒に話をし、対話をするときや、何かを感じるときや、何かを見るときは、決心もするし、誓いも立てるようになります。そうしていて、対話を した後や、感じた後や、見えていたのに見えなくなったりしたら、<脳の考え>がおぼろげになって、<心>が弱くなります。その時はもう一度話し、もう一度見て、もう一度聞かなければなりません。

また、「環境と境遇」のせいで心が弱くなったり、病気になって決心が崩れたりしたら、早く治して行なわなければなりません。実践する人だけが成功することができます。

人間も、本当に作った人は変わらず、再び以前の状態に戻ることはありません。変わる人はまだ作られていないのです。例えば、「土」で「陶磁器」を作ると、「陶磁器」が再び「土」に変わらないように、自分を作った人は二度と変質せず、永遠です。

今日の御言葉を聞いて、皆さんみんなが自分を作る恵みに満ちることを祈ります。

 

神様の天の御座と地の御座

[本 文]  へブル人への手紙8章5節
5)彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。 

ヨハネの黙示録4章2~11節
2)すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。
3)その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた。

4)また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。
5)御座からは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。また、七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である。 
6)御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。
7)第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。
8)この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。
9)これらの生き物が、御座にいまし、かつ、世々限りなく生きておられるかたに、栄光とほまれとを帰し、また、感謝をささげている時、
10)二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、 
11)「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。

 
ヨハネの黙示録 14章1~8節

1)なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。
2)またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。
3)彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。
4)彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。
5)彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。 
6)わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、
7)大声で言った、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。
8)また、ほかの第二の御使が、続いてきて言った、「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた者」。 
ハレルヤ!

永遠でいらっしゃる聖なる父神様の愛と御子の平安が満ちることを祈ります。
神様は<天の国>にいらっしゃり、そこには「神様の御座」があります。
また、神様がいらっしゃる地上の住みかは「地上にある真の聖殿」です。
だから<聖殿>を「神様の家だ。宮だ。宮殿だ」と言うのです。
<聖殿の縮小>はすなわち「椅子」です。だから<聖殿の壇上>は「神様と聖霊様と御子主が鎮座まします椅子」です。
家を建てるときも, 一番上には「楽に休める空間」を作るように、神様も一番高いところに天の御座を象徴する場所をおかれます。
聖書の歴史を見ると神様は<聖なる聖殿>を高いところにおいて,
神様の人たちを高い山と御心の場所にお呼びになりました。
ソロモンの時も<神様の聖殿>は一番高いところ、「モリヤ山の頂上」に建てました。
アブラハムにも捧げものを捧げる時、高いところで捧げなさいとおっしゃいましたが、息子イサクを燔祭として捧げたところが、「モリヤ山の頂上」です。
モーセも「高いシナイ山」にお呼びになり、話されたし、エリヤも「カルメル山の高いところ」で神様に燔祭を捧げ、偶像の神に仕える偽預言者850人と戦って勝ちました。
神様は「高いところ」に座して、降臨し、働きかけます。
<神様の御座>は天国で一番高い所にあります。
<御座>から見ると天国のすべてのものが全部見え、宇宙と地球が全部見え、個人までも全部見えます。

今日の本文であるへブル人への手紙8章5節のように、神様は<天の国>にあるものを<地>にも影のように象徴として置いて、それに合うように行なうから、神様の御座の前に完全に出て行く皆さんになることを祝福します。

 

まずは「神霊な霊的な仕事」だ。その次が「肉的な仕事」だ。

[本 文] ローマ人への手紙8章5~8節

5)なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。 
6)
肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。

7)なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。

8)また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。 
ハレルヤ!

永遠でいらっしゃる聖なる父神様の愛と御子の平安が満ちることを祈ります。
人間には「霊と魂」があり、「肉」があり、<霊的な仕事>もしなければならないし、<肉的な仕事>もしなければなりません。しかし全世界の人たちはほとんどみんな<肉的な仕事>を先にするから、<肉的な仕事>は成功しても、<霊的>には失敗して生きていきます。だから、人間は毎日<成功>もし、<失敗>もしながら生きていきます。
どのようにすれば毎日<霊的>にも<肉的>にも成功して生きていけるでしょうか?

まずは「霊的な時間」に<霊的な仕事>をして、その次に「肉的な時間」と共に<肉的な仕事>をするのです。つまり、順序よく先にすべきことを先にして<霊的な勝利>をする人が<肉的な勝利>もするようになります。
<肉的な仕事>を先にして「霊的な成功」をした人は、この世界にたったの一人もいません。宝石の価値を見ても、「銀」よりは、「金」がもっと価値があり、先です。これと同じく、「霊的なこと」がもっと価値があり、先です。
<霊的な時間>に<肉的な仕事>を先にすることは、燃料を入れないで飛行機を先に飛ばすようなことで、飛んでいく途中で100パーセント墜落するようになります。<霊的な仕事>を先にしてこそ、神様と聖霊様と御子主が働きかけます。<霊的な仕事>を先にしてこそ、「勝利の道」に行くからです。
<肉的な仕事>を先にしたら、苛立ち、やり終えた後も気になり、つらいです。いくら食べて、飲んで、愛して、享楽を享受しても、<肉的なこと>を先にするから、虚しく、風をつかんだようです。<肉的な仕事>はしても<霊的な仕事>ができなくて、<霊>が失敗したからです。
だから、今日の御言葉を聞いて、先にすべきことを先にすることで、毎日勝利し、成功する生を生きることを祈ります。

 

人間が「神」になって生きる方法

[本 文] ヨハネによる福音書10章35節
35)神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、

 

ハレルヤ!

永遠でいらっしゃる聖なる父神様の愛と、御子の平安が満ちることを祈ります。
今日の聖書の本文で「神様の御言葉をもらった人は神になる」とおっしゃいました。
これは、<御言葉>はすなわち「神様」で、<神様>は「神」でいらっしゃるから、<神様の御言葉をもらった人>も「神」になるということです。
モーセが<神様の御言葉>をもらってのべ伝えたので、民はモーセを「神」だと言ったし、神様がイエス様に<その時代の神様の御言葉>を与えたので、イエス様は「神」になって御言葉をのべ伝えました。
<御言葉>が神様であり、<御言葉>が聖霊様であり、<御言葉>が御子主です。
だから<御言葉>をもらう人が神様と聖霊様と御子主をもらう人になって、人間として「神」になって生きるようになります。
神様は「天地」を創造なさる前に、初めから完璧に構想して、その「完璧な構想」に従って、完璧にお作りになりました。
だから、日、月、星、地球は、数十億年間使っても故障せずに、完璧に運行しているし、また、地球は一度も軌道を外れることなく、ちゃんと運行して、人間やさまざまな生物がこの地上で生きているのです。
このように、神様と聖霊様と御子主は、作る前に構想する時から、初めから100%完璧に構想なさり、行なう前に「完璧に構想」なさいました。

私たちも人間として神になるためには、作る前に構想する時、「完璧な構想」をし、作る時に「その構想」どおりに完璧にちゃんと作らなければなりません。
だから、作る前に「完璧な構想」であり、そして、一つ一つ行なうことです。これが<神になる方法>です。
一度構想を間違ったら、汗を流して作っても、90%しか作れません。
完全であるためには、行なう前に「完全な構想、完全な計画」です。
そうすれば「神」のようになって、失敗することも100%成功して勝利するようになり、死ぬところからも助かり、病気で死ぬ人も生き返るようにし、問題が起こるところも起こらなくなり、葬式をする家が宴会をする家になるようにします。
今日の御言葉を聞いて、みんな「神」になって生きながら、神と通じる皆さんになることを祈ります。

 この時代の聖餐式

[本 文] ヨハネによる福音書13章1~20節 (拝読する聖句13章12~20節)

12) こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。
13) あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。
14) しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。
15) わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。 
16) よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。
17) もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。
18) あなたがた全部の者について、こう言っているのではない。わたしは自分が選んだ人たちを知っている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』とある聖書は成就されなければならない。
19) そのことがまだ起らない今のうちに、あなたがたに言っておく。いよいよ事が起ったとき、わたしがそれであることを、あなたがたが信じるためである。
20) よくよくあなたがたに言っておく。わたしがつかわす者を受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをつかわされたかたを、受けいれるのである」。

 

ハレルヤ!

永遠でいらっしゃる聖なる父神様の愛と御子の平安が満ちることを祝福します。
イ エス様は、神様が新約の歴史を成すために遣わした「メシヤ」として、イスラエル民族と全世界を救うために来ました。しかしメシヤを待っていて神様を信じて いた人たちの不信によって、イエス様は「死」で万民の罪をあがない、神様のみもとに行くべき時が来たことを知りました。
イエス様は、十字架につけられて死ぬ前に、大きく「二つのこと」をなさいました。 一つは、「弟子たちと共にした最後の晩餐」でした。
イ エス様は、自分を不信し悪評する旧時代の宗教人たちと政治家たちに捕らえられる前日に弟子たちを集めて、「パンとぶどう酒」を分けてくださって、『このパ ンは、あなたがたのために与える私の体である。この杯は、あなたがたのために流す私の血で立てられる新しい契約である。私を記念するため、このように行い なさい』とおっしゃいました。 (ルカ22:19~20)

そして捕らえられる前にもう一つのことをなさいましたが、今日の本文の御言葉に出てくる「弟子たちの足を洗ってあげること」でした。イエス様はたらいに水を入れて、弟子たちの足を洗ってくださいました。イエス様は、「主」として、「先生」として、弟子たちの足を洗ってくださって、「あなたたちも私のようにするようにと、私が『手本』を見せた。だからあなたたちも互いに足を洗ってあげなさい」とおっしゃいました。
足を洗ってあげなさいという言葉には、さまざまな意味があります。 互 いに睦(むつ)まじく過ごし、愛して暮らしながら、兄弟の咎(とが)を覆ってあげ、祈ってあげ、 兄弟の間違いを赦(ゆる)してあげ、血気が出るほど腹立たしくさせた兄弟たちを、足を洗うように洗ってあげ、すべての命たちにそのように接してあげ、イエ ス様が「主」として「先生」として手本を見せたのです。
そしてイエス様はまたおっしゃいました。「主について行くからと言って、みんな「選ばれた人」ではない。同じ席で一緒に『主よ! 主よ!』と言いながら従っても、 私に向かってそのかかとを上げて、私を裏切る人がいる」とおっしゃいました。
ここで、「イエス様にかかとを上げた人」は「イスカリオテのユダ」です。イエスカリオテのユダの裏切りで、イエス様のかかとが地上から上げられてしまいました。つまり 十字架の死を被ってしまいました。
一方では、イエス様は<人類を救う栄光の道>を行かれ、もう一方では<犠牲の十字架の道>を行かれました。

救い人は、「自分の罪」のゆえに十字架を背負うのではありません。「世の罪」のゆえに十字架を背負います。その時代の人たちが、イエス様をメシヤとして信じて従うことでイエス様が「栄光の主」になり、 救いの御心を成すことが本来の御心でした。しかし、その時代の人たちは、立ち返ることをせず、時間がたてばたつほど、一層イエス様を悪評して妨害し、異端視しました。
時 代の局面がすでに「悪の側」に傾き、そのままにしておいたら、<救いの歴史>をちゃんと広げることができませんでした。それでイエス様は、メシヤとして、 罪人たちの罪を代わりに背負ってあげ、すべての人々に「救いの道」を開いてあげるために、十字架のある<エルサレム>に帰って来られて、「犠牲の道、十字 架の道」を行かれました。イエス様はメシヤだから、主が代わりに悔い改めれば、 それが条件になって、「救いの道」が開かれました。
メシヤが弟子たちの足を洗ってあげたように、弟子たちも兄弟たちと従う人々のために生きてあげ、 仕え、愛してあげ、犠牲になり、「主の体」となって生きなさいと当世にも宣べ伝えたし、後世にも新約歴史2000年間、その精神と御言葉を叫んできました。
皆さんも、この時代の聖餐式を通してこの「福音」と共に、「平和と愛」で行うことを願います。

 

悟って知りなさい 

[本 文] 詩篇49篇20節

 人は栄華のうちに長くとどまることはできない。滅びうせる獣にひとしい。(口語訳) 

『とうときなかにありて悟らざる人は滅びうする獣のごとし。』(文語訳)

『人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。』(新改訳)

ハレルヤ!

永遠でいらっしゃる聖なる父神様の愛と御子の平安が満ちることを祈ります。
悟ったということは、「銀」のように見えていたものが、「金」のように貴重に見えることです。また、悟ったということは、認識が変わったということです。悟ったので正しく見え、根本を正しく知るようになるのです。
ものを買う時も悟れずに買ったら「よいもの」を買えずに、「悪いもの」を買っておいて喜びます。このように悟れずに生きたら、肉体は一生の間、霊は永遠に、あまりにも大きな損をします。
悟る時は「霊的」に悟らなければなりません。イエス様を正しく悟ったベタニヤの一人の女の人は、イエス様の前に、壺に入っている香油を注いで、正しく分かって従ったし、ペテロもイエス様を正しく悟って、「主はキリストで、生きていらっしゃる神の子です」と告白しました。
悟ったということは、100%根本を分かったということです。<悟ること>は、ちょうど試験をするときに「これが答えだ!」とはっきりと分かって感嘆し、はっきりと知っているからさっそく答えを書くように、そのようにすることです。
これと同じく、悟ったら、さっそく行なうようになります。行なわない人は「悟った次元」にいないのです。
一 本の松の木も近くあってこそ、「よい香りとよい空気」を与え、いつも目に見えて、「愛」が向くように、人も近くあってこそ、親戚のようだし、畑も家から近 くあってこそ、最高の畑であるように、誰でも、小さくても、大きくても、御子主と最高に近くにいる人がこの世で金のように貴重な人です。

人間も万物も近くあってこそもっと価値があり、近くあってこそ目でも心でももっと感じるようになります。

悟った人が近く感じるようになるから、御子主と近い人になって、体も心も行ないも魂も霊も一体になって生きることを祝福します。

 

 実践が勝利だ。行なったことが勝利だ。 最善を尽くして行なって完成しなさい。

[本 文] ローマ人への手紙2章6~8節

6) 神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。 
7) すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、 
8) 他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。 

ハレルヤ!

永遠でいらっしゃる聖なる父神様の愛と御子の平安が満ちることを祈ります。
人が世の中を生きていきながら得られないで生きる理由は、<目的>なしに生きるからであり、<目的>を忘れて生きるからです。しかし誰でも100%目的をもって行なえば、100%得ます。

<希望>は「二通り」で成されます。一つ, 行なうことで成され二つ, 行なって得ることで成されます。

食べ物は目で見るからといって食べられるのではなく、実際に食べてこそ食べられるように、<見える肉のもの>は、実際に行なってこそ得て、<見えない霊のもの>も「肉」が行なうことで得ます。

行なうにしても、どのように行なってこそ得るでしょうか?最善を尽くしてこそ、「最善のもの」を得ます。最善を尽くさなければ、「最善の生」と「最善の甲斐」を享受できません。

努力し、研究して、自分の実力の限り、最善を尽くすことです。

「最善のもの」を得たということは、「その中で一番いいもの」を得たということです。「最善のもの」は、黄金の宝、ダイヤモンドのようなもので、「その次のもの」は銀、銅、鉄のようなものです。最善を尽くしてこそ、「そのセンターで最上のもの」を得るようになります。

毎日最善を尽くしてこそ、自分の主管圏で「最善のもの」を得て、「最善のもの」を得てこそ、完全に満足し、喜んで生きるようになります。「最善のもの」を得るためには、100%行なうことです。
最善を尽くさず「未完成」で生きる人はいつも「完成」に至ることができず、「未完成」で終えます。

だから、今日の御言葉を聞いて、最善を尽くして、主の御心の中で行なって、得て、使い、希望を成し、甲斐を享受して生きることを祝福します!

 

一緒にやればできる。大きくなれば 、変化して次元を上げたから、できる。

[本 文] マタイによる福音書13章31~32節
31)また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、
32)それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」。 

ハレルヤ!

永遠な聖なる父神様の愛と、御子の平安が満ちることを祈ります。

今日は、不可能なことが、どうやったらできるのかについて、御言葉を伝えます。
不可能なことが、どうしたらできるでしょうか?

山に生えている「一本の木」では、「人間が住む家」を造れませんが、

数百本あれば家を造ることができます。
このように、不可能なことでも、複数の人が一緒にやればできます。 

また、不可能なことも、大きくなれば(成長すれば)、できます。

小さい子供には絶対に不可能なことでも、大きくなれば、絶対に可能で、幼い木では絶対に柱をつくることはできませんが、大きくなれば、できます。
「大きくなる(成長する)」ということは、「つくる」ということであり、「変化する」ということです。

人間が成長していく中で発育してつくられていくように、聖三位を信じて、メシヤの御言葉を聞いて行うと、考えも行いも霊も、だんだんと完全につくられていき、変化します。
また、人間が大きくなる(成長する)ということは、絶対に、行うべきことを行えば次元が高くなって、できるようになるということです。

大きくなれば(成長すれば)、他の世界になります。
<砂>が大きくなったら、別世界である「石」になり、<石>がさらに大きくなったら、「岩」になるよに、<人間>も大きくなれば(成長すれば)、つまりつくられて変化しさえすれば、「完全に別世界の人生」になります。
「大木」がいくら良くても、<王の部屋>には入れず、「完全な家具」に作って初めて<王の部屋>に入ることができるように、<天国>もそうです。
どこの誰であっても、「肉」では行けず、ただ「自分の霊」を「完全な神」に育てて、変化させて初めて行くことができます。
このように、そのままでは<天国>に行くことはできず、そのままでは<世の中>でも「願う志〔こころざし〕」を成すことができません。だから自分を作らなければいけません。
人は、考えて、労苦して、行なったとおりに得て生きます。
だから、大きく考えて、大きく行なって、たくさんやってこそ、大きくたくさん得るようになって、満足を得て、天国を満喫して生きます。

今日の御言葉を聞いて、不可能なことでも、複数の人が一緒にやればでき、大きくなれば、変化して次元を上げたから、できるということを分かって、御言葉通りに行い、不可能なことを可能にする皆さんになることを祝福します。

 

自分にとっての宝だ

[本 文]

マタイによる福音書13章44節

天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。

マタイによる福音書7章7~11節

7) 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
8) すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
9) あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。
10) 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。
11) このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。

ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる聖なる父神様の愛と御子の平安が満ちることを祈ります。
今日の御言葉は『畑に隠してある宝』についての御言葉です。

何が「宝物」で、何が「祝福」でしょうか?
金の塊やダイヤモンドやお金の入った包みだけが「宝」ではありません。
各自が願うもの、望むもの、必要とするもの、希望するものが個性どおりに『自分にとっての宝』です。

そして、そして、自分がその都度願い、望むものをもらうことが『祝福』です。
つまり、 自分が願い、望み、希望し、探していたものを得ることが、<人生の宝>であり、<祝福>です。
<宝の概念>が分からないから、神様と聖霊様と御子主が私たちを愛して『さまざまな宝』を下さっても、分からないから、喜べず、感謝できません。

ある人は「家の前の木」が家を遮るからうっとうしいと言って切ってなくすか、

他のところに売ろうとします。

しかしある人は「家の前に木」がなくて探し回っていて、

なくそうとしていたその木を発見して喜びます。

このように<同じもの>でも、ある人は「ごみ」と思って捨てるし、

ある人は「宝」と思って持って行きます。
個性どおりに「必要なものを得ること」が<人生の宝>です。
霊的な宝である<救いと引き上げ>も自分の持ち物をすべて売り払って、最善を尽くして買わなければなりません。
祈って、心と思いを尽くし、真心と愛を尽くして、

神様に価(あたい)を支払って、<救いと引き上げ>の宝を買うのです。

今日の御言葉を聞いて、「自分にとっての宝」だと悟って、
最善を尽くしてはじめて、宝を「自分のもの」にするようになるから、
今年、残りの時間も、いつの時よりも貴重な時間として過ごし、
自分の宝を得て生きることを祝福します。

真の新婦の姿

[本 文]

マタイによる福音書12章35節
善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。

箴言12章18節

つるぎをもって刺すように、みだりに言葉を出す者がある、しかし知恵ある人の舌は人をいやす。

箴言15章1節

柔らかい答は憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす。

箴言15章4節
優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける。              

箴言16章24節

ここちよい言葉は蜂蜜のように、魂に甘く、からだを健やかにする。

箴言18章7節

愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分を捕えるわなとなる。

箴言21章23節

口と舌とを守る者はその魂を守って、悩みにあわせない。

ハレルヤ!

永遠でいらっしゃる父神様の愛と御子の平安が満ちることを祈ります。

<基本>が備えられていなければ、その上に何かを立ててもしょっちゅう倒れ、その上に何か輝くもので飾っても輝きません。

<言葉と行動>「基本的な人格」です。

人を傷つける言葉や行動をする人は、それが「体質」になっていて、自分が悪いことをしているとも知らずに、習慣的に続けてみだりに話し、行動します。

ある人は恵みを与えると言いながら、むしろ兄弟を躓かせ、落胆させ、力が抜けるようにさせます。

兄弟たちの力を抜けさせればさせるほど、結局自分も力が抜けます。

それを直さなくては自分に力が満たされません。
例えば二人が「同じ人」を見ているとしましょう。
しかし、一人はまず「その人のいい面」から見て、

もう一人はまず「その人の足りない面」から見ます。
どうしてでしょうか?

「自分の人格、自分の心」のせいです。
自分の人格が磨かれていなければ、

相手を見るとき「その人の足りない面」から見て指摘するようになり、自分の考えどおりに相手を判断し、みだりに接するようになります。

<相手の短所>だけを見たら、結局自分も得るものがなく、発展もできません。 
自分にとっては「蝶が羽ばたくほどの小さい言葉」でも、相手には「台風」のように衝撃的に感じられて、その言葉によって心が崩れ、躓き、落胆するからです。みんな本当にこの御言葉を胸に刻まなければなりません。
幼いからといって見くびってはいけないし、使命がないからといってみだりに接してはいけません。神様が創造なさった人間はみんな「個性の王」です。自分より幼くても、自分より仕事ができなくても「個性の王」だから、誰のことも見くびらずに、貴重に接しなければなりません。

また<王>のような人だから、「王」のようによく接してあげてこそ、気分がよくて飛び跳ね、よくできるようになります。 
人々の言葉と行ないで力が抜けることがないようにし、落胆したり、揺れないでください。
人間は人間だから「自分の心」を分かってくれません。
人々の話を聞いてその都度傷つき、人々の言葉によって自分の行くべき道があるのに揺れるなら、自分の行くべき道を行けなくなります。
今日の御言葉を聞いて、真の新婦の姿で努力し、実践し、挑戦する皆さんになることを祝福します。

 

人生を生きる味

[本 文] 詩篇28篇5節

彼らは主のもろもろのみわざと、み手のわざとを顧みないゆえに、主は彼らを倒して、再び建てられることはない。

ハレルヤ!

永遠でいらっしゃる父神様の愛と御子の平安が満ちることを祈ります。

食べ物は、「味」によって、喜びと満足を得るようになります。

もし食べ物に味がなかったら、食べ物による喜びもないし、感じることもないし、大した思いもないことでしょう。

このように、食べ物も『味』があってこそ食べたがるし喜びを得るように、

人生も『味』があってこそ嬉しいし甲斐を感じます。

<人生の味>とは『考えること』です。

<食べ物>はどう料理するかによって『味』が変わり、

<人>はどう考えるかによって『味』が変わってきます。

良く考えたら、「良い味」を感じるようになり、悪く考えたら、「悪い味」ばかり感じるようになります。

悪く考えて自暴自棄をしたら、ただちに「苦痛」が来ます。

神様と聖霊様と御子を信じるだけで、主日を守るだけ、讃美するだけ、祈るだけではなく、

自分の生の中でも続けて考えなければいけません。

<人生の味>第一に、「考える味」であり、第二に、「行う味」です。
目は見てこそ感じ、耳は聞いてこそ感じ、言葉は発してこそ(その)内容どおりに感じるように、人の体は、行なってこそ「生の味」を感じます。

神様と聖霊様と御子が存在していらっしゃっても、

自分と共になさっても、自分を助けてくださっても、自分に話してくださっても、じっとしていたら、感じられません。考えて初めて、考えで感じます。また、自分が行なって体が触れるようにして初めて、体が感じます。

結婚して「肌」が触れ、「心と考え」が触れて、いつも話して、対話して、しゃべって、相談して、一緒に行いながら暮らすように、神様と聖霊様と御子主ともそのように暮らしてこそ、関心と愛によって<神様が人間を創造なさった目的>を成すようになります。

常に主を考える信仰を持ち、常に主と話し合い、相談し、対話して、

祈りで通じてこそ、考えの味、信仰の味、人生の味を感じて、<天国>になります。

 

<肉的なこと>も<霊的なこと>も、御子主と一緒に「良い考え」をしなければなりません。
そうすれば「その考え」が<夢>になって、もっと祈って行うようになるし、

それを行うことで「喜びの味」を感じるようになります。

そうすることで肉も霊も「もっとやりたい意欲」が湧くし、「希望」が湧きます。

立っていても座っていても、いつでもどこでも、神様と聖霊様と御子主のことを考えながら、<年末>を過ごし、<新年>を迎えることを願います。

その考えで新年に良い夢を見て、またその夢を成すために、希望を持って生きることを祝福します。

伝道してこそ、神様が自分に御心をお広げになる

[本 文]

ダニエル12章3節

賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう。

使徒行伝1章8節

ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

 

ハレルヤ!

永遠でいらっしゃる父神様の愛と御子の平安が満ちることを祈ります。
<2015年新年の最初の主日礼拝>です。
今日の聖書の本文<使徒行伝1章8節>を読むと、<イエス様>が愛する弟子たちを残していかれるとき、「最高に願っていること」は何かを表わした御言葉です。

つまり聖霊を受け、権能を受けて、全世界の地の果てまで「主」を証し、伝道しようと言いました。

神様が「メシヤ・イエス様」をこの世に遣わしたとき、

「イエス様一人」だけが神様を信じ愛して、

御言葉を守って行ない、神様がおっしゃったことを行なったなら、

「イエス様」以外は一人も伝道されなくて、

神様がこの<地球世界>に<御心>をお広げになることができなかったでしょう。

しかし、イエス様が生きていらっしゃった時から今まで、

イエス様も弟子たちもイエス様を信じる人たちも、「殉教」してまで「伝道」したので、

神様が地球世界に<救いの御心>をお広げになることができたのです。

このように、伝道しなければ<神様の御心>を広げることができません。
伝道してこそ<御心>を広げ、伝道してこそ<神様が天地を創造した目的>を成します。

伝道してこそ神様と聖霊様と御子主が自分を通して<御心>を成し、伝道してこそ永遠に輝く<信仰の先祖>になって、それによって「永遠な栄光」を受けるようになります。

皆さんみんな伝道して、神様が自分を通して<御心>を成すようにすることを祝福します。

 

勝利した人たちに御子は報いてくださった 

[本 文]

ヨハネの黙示録2章2~7節

2) わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。
3) あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。

4) しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
5) そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。 
6) しかし、こういうことはある、あなたはニコライ宗の人々のわざを憎んでおり、わたしもそれを憎んでいる。
7) 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。

ヨハネの黙示録2章9~10節

9) わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。
10) あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。

ヨハネの黙示録2章13~17節

13) わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけ、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。
14) しかし、あなたに対して責むべきことが、少しばかりある。あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。
15) 同じように、あなたがたの中には、ニコライ宗の教を奉じている者もいる。 
16) だから、悔い改めなさい。そうしないと、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口のつるぎをもって彼らと戦おう。
17) 
耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある』。

ヨハネの黙示録2章24~29節 
24) また、テアテラにいるほかの人たちで、まだあの女の教を受けておらず、サタンの、いわゆる「深み」を知らないあなたがたに言う。わたしは別にほかの重荷を、あなたがたに負わせることはしない。
25) ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい。 
26) 勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。
27) 彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。
28) わたしはまた、彼に明けの明星を与える。

29) 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。

 

ヨハネの黙示録3章1~6節

1) サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。
2) 目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。
3) だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。
4) しかし、サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。
5) 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。 
6) 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。

ヨハネの黙示録3章9~12節

9) 見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。
10) 忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。 
11) わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。
12) 勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。

ヨハネの黙示録3章17~22節

17) あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。
18) そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。
19) すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。
20) 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。 
21)  勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。
22) 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。

ハレルヤ!

もう2014年を送る最後の日です。
<1年間の生の競技>は終わりましたが、

果たして<生の競技>で勝ったのか、負けたのか、引き分けなのか、

少し足りなかったのか、みんな気になっていることでしょう。

1年間どのように生きたのか「各個人のこと」を計算するときに、

<人>は計算することができません。

ただ<全能者>だけが計算なさいます。
人のために生きたのではなく、神様と聖霊様と御子のために生きたので、

ただ三位一体だけがご存知です。
今年、人生と信仰のさまざまな試みと困難に直面したけれども、

試みに打ち勝ち、困難に打ち勝った人たちがいます。
また、御言葉で叱られ、悔い改めて直し、信仰が再び生き返った人たちがいます。
小さくても大きくても御子が下さった使命を貴重に思って最後まで行なった人たちと、

幼い人たちでも、平信徒でも、今来た人でも、御言葉を最後まで守って行なった人たちと、

信仰が死なずに最後までついてきた人たちがいます。
そして天に向けた初めの愛が死んだ人が、初めの愛を再び生かし熱くした人たちがいます。

深く祈って、感動と悟りを受けて、感謝の生活をして、

奉仕の生活をして、さまざまに命たちを管理した人たちもいます。
すべて今まで行った通りに報いて下さったし、新年にも時になったらすべて報いて下さるでしょう。
2015年、新しい年がやってきました。
今年も「良い夢」を見て、神様と聖霊様と御子を希望と愛で迎えることを祝福します。

 

ちょっと待った

[本 文]

マタイによる福音書19章17節
イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。 

ヨハネによる福音書14章15節

もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。

ローマ人への手紙1章20~23節
20) 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。 
21) なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。
22) 彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、
23) 不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。

ハレルヤ!

永遠でいらっしゃる父神様の愛と御子の平安が満ちることを祈ります。

道路には信号がついているでしょう?
信号は無言で「赤」信号をつけています。

これは「ちょっとだけ止まれ!」という意味です。

そうすると、走ってきていた車が「赤信号」を見て止まります。

そのとき信号は無言でちょっとだけ!「青信号」をつけます。
その瞬間人々は「青信号」を見て渡って行きます。
ここで、「赤信号」と「青信号」は無言で「ちょっとだけ」という意味として使われます。

また、車を運転して、バックをしていましたが、道を行く人が周りの状況を見て「ちょっと待ってください!」と言ったのに、その言葉を無視して続けてバックしたら、20kmの絶壁から転げ落ちて大変なことになります。

「名前」を呼ぶときと「ちょっと待った」と言うときは、<意味>も異なるし、<言うこと>も異なります。

「ちょっと待った!」は「一瞬止まれ。それ以上行ったら駄目だ」「そうするな」「待機しろ。中止しろ」「言いたいことがある」という意味です。

「ちょっと待った!」は「その瞬間、急ぐとき」に使う言葉で、「その瞬間、問題があるとき」に使う言葉です。
このように、御子主は私たちに『ちょっと待った!』と言って止(と)めさせます。
その時「その瞬間の自分の考えと行ないと立場」を見たら、

どうして「ちょっと待った!」と言ったか、本人が自ら悟るようになります。

危ない道を行くとき、憤る直前、知らずに兄弟を誤解するとき、

悪なる決心をするとき、感謝すべきなのに不満が出てきそうなとき、

財布を公衆電話の上に置いて電話をかけてからそのまま帰ろうとするとき、

健康に神経を使っていないとき、やってはいけないことを敢行しようとするとき、

分別できずに確認せずに行なうとき、自分の立場だけを考えて行なうとき、

車に乗って気をつけないで走るとき、事故が起こる直前、

さまざまに自分がやっていたことを前にして諦めようとするとき、
このようなとき御子主は「ちょっと待った!」と急いでおっしゃり、しばし止まるようにしてくださいます。
この時は「私が考えていたことと私がやっていたことに問題があるのだな」と悟って、さっそく翻して、処理しなければなりません。

ある時は「ちょっと待った!」この言葉が声で来るのではなく、

それに該当する万物を見せておっしゃり、止め、助け、行ないます。
また、感動で働きかけて、自分の心を強くすることで助けます。

「ちょっと待った!」この言葉を「頭」で覚え、いつも御子主と対話しなければなりません。

そして御子主に「ちょっと待ってください!」と言って、御子主を呼ばなければなりません。

「ちょっと」で運命が左右され、祝福と災いが左右されます。

「ちょっと待った!」この御言葉の中に、災いを避け、祝福を受け、財を得る方法が入っているし、畑に隠してある宝を発見する方法がすべて入っているので、この御言葉を尊く思って、行うことを祝福します。

 

忘れたら死ぬ

[本 文]

歴代志下35章21~25節

21)し かしネコは彼に使者をつかわして言った、「ユダの王よ、われわれはお互に何のあずかるところがありますか。わたしはきょう、あなたを攻めようとして来たの ではありません。わたしの敵の家を攻めようとして来たのです。神がわたしに命じて急がせています。わたしと共におられる神に逆らうことをやめなさい。そう しないと、神はあなたを滅ぼされるでしょう」。
22)しかしヨシヤは引き返すことを好まず、かえって彼と戦うために、姿を変え、神の口から出たネコの言葉を聞きいれず、行ってメギドの谷で戦ったが、
23)射手の者どもがヨシヤを射あてたので、王はその家来たちに、「わたしを助け出せ。わたしはひどく傷ついた」と言った。
24)そこで家来たちは彼を車から助け出し、王のもっていた第二の車に乗せてエルサレムにつれて行ったが、ついに死んだので、その先祖の墓にこれを葬った。そしてユダとエルサレムは皆ヨシヤのために悲しんだ。
25)
時にエレミヤはヨシヤのために哀歌を作った。歌うたう男、歌うたう女は今日に至るまで、その哀歌のうちにヨシヤのことを述べ、イスラエルのうちにこれを例とした。これは哀歌のうちにしるされている。
エゼキエル書18章19~20節

19)しかしあなたがたは、『なぜ、子は父の悪を負わないのか』と言う。子は公道と正義とを行い、わたしのすべての定めを守っておこなったので、必ず生きるのである。

20)罪を犯す魂は死ぬ。子は父の悪を負わない。父は子の悪を負わない。義人の義はその人に帰し、悪人の悪はその人に帰する。

エゼキエル書18章32節

32)わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。

 

ハレルヤ!

永遠でいらっしゃる父神様の愛と御子の平安が満ちることを祈ります。

今日の聖書の本文である<エゼキエル書18章19~20節>を読むと、

神様の御言葉を忘れたので「罪」を犯すようになり、それによって「霊魂が死ぬようになった」と書いてあります。

 

また<歴代志下35章以下>を読むと、

ヨシヤ王は神様が自分の民族を守ってくださるという約束を忘れ、

自分の考えどおりにやっていて、結局矢に射当てられ、「肉」が死にました。

これと同じく、過去も現在も、神様と御子主がおっしゃった御言葉を忘れて行なわなければ、死にます。

正直『忘れたら死ぬ』この文章だけを見たら、

『死』という単語が入っているので、怖いし、あまりよくありません。

しかし考えれば考えるほど、生活の中で本当に必要な、命のような貴重な御言葉です。

<死ぬ>ということは、『肉体』が死ななくても、『その仕事』が死に、『その時間』が死ぬということです。

ある時は『肉体に該当すること』を話したのに、その言葉を忘れて

自分の考えどおりに行なったら、『肉に該当すること』が死にます。

<死>は『切れた。駄目だった』ということです。

何でもない植木鉢の花も、「水をやること」を忘れたら枯れて死に、

木に登る人が「落ちるということ」を忘れたら、落ちるようになります。

「忘れたら死ぬ」という文章をおいて、それに該当する単語を入れて

100個、1000個の箴言を各自作ってみることを願います。

今年この御言葉を本当に「宝物」として思って、「恋人」のように胸に抱いて持ち歩いて使わなければなりません。

「忘れたら死ぬ」この御言葉は武器であり、鉄の城壁であり、祝福であり、畑に隠してある宝を見つけさせる御言葉です。

この御言葉が「御子主」になり、一人でいても「自分」と共にし、「自分」を生かすから、

今日の御言葉を忘れずに生きることを祈ります。

 

命の帆

[本 文] ヨハネによる福音書14章6節

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

ハレルヤ!

永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。

人は、つらい思いをして生きまいと努力し、研究し、さまざまな生活用品を作り出し、さまざまなことを考え、よりまさった生を生きようとします。

しかし大変な思いをせず、苦労をあまりせず、易しく楽に生きることは本当に難しいです。

だから人は天の運に乗らなければなりません。

運には、地上の運があり、天の運があります。

自分の努力と労苦、自分の才能と能力は「自分の運」です。

「天の運」<海の船の帆>と同じで、<空中の鷲の翼>と同じで、<地上の自動車のエンジン>と同じです。

<櫓を漕ぐ船>と<帆がついている船>は、<地>と<天>のような差があります。
<帆がついている船>は「風」で行くから、大変な思いをしないで、波をかき分けて進みます。

しかし<帆がなく、櫓を漕ぐ船>は「手と腕」で漕いで進まなければならないから、大変で、遠くまでの航海ができないし、波に押し流されて、違う方向に行くようになります。

主は「命の帆」であり、「希望の帆」であり、「真理の帆」です。
人生の海を航海するとき、「自分という船」に「主の帆」をつけてこそ、夢がかない、

宝も得、幸せも得、甲斐も感じ、愛も知恵も運も来ます。

これが「人生の櫓」を漕いで苦労をせず、大変な思いをせずに、人生を易しく楽に生きる道だから、<主>という帆を「心と考えの中心」に挿して、「生活」に挿して、人生を易しく楽に生き、勝利して生きることを祝福します。

 

許し

[本 文] マタイによる福音書18章21~22節
21)そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。

22)イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。
ルカによる福音書6章37節
37)人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。
ルカによる福音書7章47節
47)それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。

ルカによる福音書11章4節
4)わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」。

ルカによる福音書17章3節
3)あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。

 

ハレルヤ!

永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安が満ちることを祝福します。

人が生きていくとき、分かってみると、『知らないでいること』があまりにもたくさんあります。人々は相手が間違いを犯して自分に「害」になったら、叱るようにもなり、怒りながら話し、接するようになります。

兄弟が間違いを犯して自分に害になったことを考えるから、叱らずにはいられないし、怒らずにはいられません。それでも「そのこと」を考えないで、御子主が自分を許したように、自分も兄弟をきれいに許して、「二度とそのようにしないで頑張りなさい」と言わなければなりません。

<兄弟の罪>を裁いてはいけません。そうしたら、裁判官である「神様と聖霊様と御子主」をさしおいて自分が自ら裁判官になって行なって、自ら罪を犯すようになります。

ただ神様、聖霊様、御子主が「公義の裁判」をされます。

<自分の感情による裁判>は「公義の裁判」にならず、また<自分の感情>で接したら、それによって自分ばかりが罪を犯すことになって「罪びと」になります。
人は知らずに罪を犯すと言うけれども、大半は自分が罪を犯すときに知っていながらも罪を犯すようになります。知っていながらも「節制」ができなくて罪を犯し、罪を犯したらいけないということを知っていながらも、一度「脳の考え」に始動がかかったら止まりません。だから初めから<考え>でも始動をかけてはいけません。

毎日<悔い改め>を忘れてはいけません。

生活をしているうちに「ごみ」が出てくるように、生活をしているうちに「気になること」が出てくるから、その都度<主の御名>で随時悔い改めることです。

許せば生きるし、許さなければ「罪」によって、罪の中で死ぬから、主が許してくれたことを忘れず、清い肉と魂と霊になって、よくなり、栄えることを祝福します。

 

 1.人間は<考えと行動>によって「運命」が変わる 2.肉も精神も行動も完全に「発育」し「成長」するように行ないなさい

[本 文] 創世記1章27~28節

27)神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
28)神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
ハレルヤ!

永遠でいらっしゃる神様の愛と、御子の平安が満ちることを祝福します。

人間が生きるときも<自分の脳を作動させる方法>を分かってこそ事故を起こさず、人生を正しく完全に生きることができます。
だから今日は一つ目に<自分の脳を作動させる方法>を話します。
<人間の脳>は瞬間いろいろなことを考えることは考えるけれども、実際に脳が作動するときは「二つの考え」を同時に作動させることはできず、「一つのこと」に没頭して考えるようになります。<その考え>に従って<体>も反応し、「一つのこと」を行なうようになります。
譬えで言うと、<人間の脳>は「エレベーター」と同じです。
エレベーターに乗って「何階」に行くかボタンを押した後、エレベーターが一度作動し始めたら、「ボタンを押した階」まで行くようになります。
また、<考えのスイッチ>を押して一度脳を作動したら、ちょうどジェットコースターが一旦出発したらとりあえず最後まで行かなければならないように、途中で止まりません。
このように、<人間の脳>も一度作動したら、そのまま進行します。そうして結局<体>でも進行するようになります。
しかし、不義と罪のことは初めから<考え>で「始動」をかけず、<考えのスイッチ>を絶対に押さず、<考え>で節制し、切らなければなりません。
今からは<二番目の主題>である「肉も魂も霊も完全に発育し成長するように行ないなさい」に関する御言葉です。
「成長して完成した穀物とさまざまな実」は、「まだ完成されていず、成長中のもの」とは、味も形も栄養価も完全に異なります。比較になりません。

<米>も成長中の時にむいてみたら、「白っぽい水」だけが入っていました。
もう一か月たって、またむいてみたら、「水」が形体をなして「米の実」に変化していて、押してみたら柔らかかったです。
秋になってまたむいてみたら、「米の実」が堅くなっていて、つやがありました。쌀의 생명의 米の命の芽である「胚芽」ができて形成されていました。
このように、万物も<段階>を経て成長してはじめて完成するように、<人間の成長過程>も三段階があります。<三つの三段階>が全て成長してはじめて完成します。
最初は「肉の発育、肉の成長」です。 
赤ん坊が「美しい、きれいだ」というのは、<赤ん坊の主管圏>で見たときにそうだということです。赤ん坊は「成長した肢体」を表すことはできず、「成長した肢体」として光を放つこともできません。<肉>が全て完成するときまで発育し、成長しなければなりません。

二つ、「心・精神・考え」が成長して完成しなければなりません。
<考え>が未熟だと、未熟なまま行なうようになります。
だから「愛」もみだりにするし、「お金」もみだりに使うし、「見てはいけないもの」も好奇心で手あたり次第見て、「行なってはいけないこと」も手あたり次第行ないます。
人間は「精神と考え」に従って行なうようになり、その行ないが「自分の人生の運命」を決めるようになるから、必ず<精神と考え>を絶対に成長させなければなりません。
「本当にやろうとする心」がある分だけ、「心と考え」が強い分だけ早く成長します。
三つ、「行動」が成長しなければなりません。
<心>では本当にうまくやりたいのに、<体>でいざやってみると、「80の線」まではできるけども、「90の線」を行なおうとしたらできません。
これは、<行ない>がそこまでしか成長していなくて、それ以上は行なえないのです。
<行ない>が完成していない状態で行なったら、問題を起こすから、繰り返しやってみなければなりません。繰り返しやってこそ、<行ない>が完成します。

<肉>が成長したから、今、<精神>が完全に成長し、<行動>が完全に成長したら「100%成功」です。
神様と聖霊様と御子主は完全でいらっしゃいます。しかし、人々は「人間が神でもないのにどうやって完全にできるのか。難しい。不可能だ」と言います。
しかし、人間が作った数千種類の電気製品、服、靴を見てください。完全に作ったから使うのです。
<ロケット>も完全に作って打ちあげます。そうすると、10年間地球の軌道を回って写真を撮って送ります。「鉄の塊」もやっているのに、どうして「人間」ができないと言いますか。
やれば、みんな完全にできます。

本当にやろうとしさえすれば、みんな完全にできます。できるのに自分がやらないのです。

神様は「宇宙万物」を完全に作ってくださいました。
私たちは「その完全な万物」をすべて使って生きているから、私たちも完全にできます。

今日の御言葉を聞いて、人間がやろうとしさえすれば、完全に行うことができるから、完全に行なって英雄になり、神の次元にのぼることを祝福します。

 

不義な考えが来たとき、ただちに滅ぼしてしまいなさい

[本 文] マタイによる福音書4章10節
するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
ハレルヤ!

永遠でいらっしゃる神様の愛と、御子の平安が満ちることを祝福します。

<人間>はどうして人間でしょうか?
「心と考え」があって人間です。「形体」だけがあるからといって人間ではありません。
なぜなら、<死んだ人、死体>も「形体」はあるけれど、「心と考え」がないからです。
風も吹かなければ<風>ではなく、<一つの空気>であるように、<人間>も「心・精神・考え」がじっとしていたら、息だけをする<一つの空気のような存在>に過ぎません。
風が吹くように「心・精神・考え」が動いて機能してはじめて「心が水の流れのようだ。波のようだ。精神が剣のようだ」と言われるようになります。
また、じっとしていたら「心」があちらへこちらへと流れていき「ありとあらゆる考え」が浮かぶから、<心と考え>を打ちのめさなければならなりません。
自分が<悪い考え>、<三位の法から外れた考え>をしたら、蛇を捕まえるように、土の甕(かめ)を砕くように、毒麦を焼き尽くし雑草を抜くように、<主の御言葉の斧>を振り下ろして、なくさなければなりません。
「<考え>をちゃんとすること」です!
「<間違った考え>を治めること」です!
「<間違った考え>を、蛇を捕まえるように捕まえること」です!
「<間違った考え>を土の甕(かめ)を砕くように砕くこと」です!
「<間違った考え>を、雑草を抜くように力強く抜き取ること」です!
<不義な考え>をなくす時は、「タイミング」がとても重要です。
<不義な考え>が少しでも来たとき、直ちに!!踏みつぶしてしまわなければなりません。
<不義な考え>が非常に小さくても、そのままにしておくと、その考えがだんだんと大きくなって、結局自分に襲いかかるからです。
<不義な考え>が少しでも来たとき、直ちに!!ぎゅ~っと踏んでしまい、踏みつぶしてなくすことです。このようにする人は「大勝利者」です。
今日の御言葉を通して<不義を治める御力と権勢>をもらったでしょう?必ず「その御力と権勢」を使って勝利することを祝福します。

 

ただ私エホバを中心にしなさい

[本 文] マタイによる福音書22章37~38節

37) イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 
38) 
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
ハレルヤ!

永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。

今日の御言葉は<試験>をする前に<答え>を先に見せてあげるのと同じ御言葉です。

だからこの御言葉を肝に銘じ、記録し、必ず行なわなければなりません。

絶対的に見た時、エホバ神様の価値は<人間の次元>では絶対に計算できないほど大きく、<人間の言葉>では絶対に表現できないほど大きいです。
しかし相対的に見た時、人間にとってエホバ神様の価値は千差万別に計算できます。
これと同じく、人間は<絶対的に大きい価値を持っているもの>を貴重に思って接し、それに中心を置いて行なうより、自分の中心、自分の心の中で<相対的に自分がもっと大きいと判断しているもの>を貴重に思って接し、そこに中心が傾いて行ないます。

神様は、私たちの中心に「神様」が完全にあることを願われます。
だから神様の<絶対的な価値>のために、神様を大きく思って信じるのではなく、自分の主観的な価値>の中においても、神様が「一番大きい存在」であることを願われます。

私たちの生の中でどんなことを行なうにしても、いつも神様に告げ、神様と共に行なうことを願われます。

だからいつも自分の心を省みなければなりません。

神様を「中心」に置かず、<自分自身と自分が好きなこと>を「中心」に置いて、自分がやりたいとおりに行なってはいないのか、また<他の人>を自分の中心において、その人の言葉どおりに行なっていないのか、省みなければなりません。

エホバ神様を一番愛し、その御言葉どおりに行なう人は、神様の心情にふさわしい人です。
神様は私たちをこの上なく愛するから、いつも「最上のもの」を与えようとされます。

ただ神様を最優先にするとき、神様が与えようとする「最上のもの」をもらうことができます。

神様を中心にすればするほど、自分の人生が甲斐に満ち、輝く人生になります。だから今日の御言葉を聞いて、いつも「ただエホバ神様だけを中心」にして、<最も甲斐があり、価値のある人生>になることを祝福します。

 

祈りは神様から決裁を受けるためにすることだ

[本 文] ダニエル10章10~12節

10)見よ、一つの手があって、わたしに触れたので、わたしは震えながらひざまずき、手をつくと、
11)彼はわたしに言った、「大いに愛せられる人ダニエルよ、わたしがあなたに告げる言葉に心を留め、立ちあがりなさい。わたしは今あなたのもとにつかわされたのです」。彼がこの言葉をわたしに告げているとき、わたしは震えながら立ちあがった。
12)
すると彼はわたしに言った、「ダニエルよ、恐れるに及ばない。あなたが悟ろうと心をこめ、あなたの神の前に身を悩ましたその初めの日から、あなたの言葉は、すでに聞かれたので、わたしは、あなたの言葉のゆえにきたのです。

ハレルヤ!

永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。

人間同士も「対話」がなければ遠くなり、愛する人なのに「愛」がなければ一緒にいられません。神様と聖霊様と御子主の前でもそうです。<祈り>は聖三位と主との「対話」であり、「愛」です。だからいつも対話し、探し、呼び、愛して生きなければなりません。

<祈り>をする理由は「神様から決裁を受けるためにすること」です。
<祈 り>で天の前に切実に状況を告げたら、神様がご覧になって感動し、適切であれば決裁なさります。決裁さえおりたら、それは神様が許諾し、命令なさったこと だから<天使たち>も助け、<聖霊様>も感動を与え、<御子主>も働きかけて、ふさわしい人たちを総動員して、その都度行なうことで成功するようにさせま す。

ところが<祈り>をしてもいつも「決裁」してくださるのではありません。人々は、何かを得ることを願う時は神様と御子主を呼んで探し、やきもきし、食事を抜いて祈り、神様がくださりさえすれば、神様がおっしゃることを全てやると言って約束します。

そうしていて、もらったら、自分がこうすると約束したことを全部忘れてしまいます。

「トイレに入る時と出てくる時が違う」という韓国のことわざのように、「最初の心」と「後の心」が違います。

神様と御子主が、祈ったとおりにくださったなら、ますます神様と御子主を愛し、毎日感謝感激し、自分の矛盾と間違いを直し、くださったものを貴重に思って使って、また求めるべきものを求めて、くださいと言わなければなりません。

つまり<自分が願っているもの>と<自分がする仕事>について祈るとき、

神様に「決裁」をよく受けるためには

一つ、ふさわしいことを求めなければならないし、

二つ、だまさないで求めなければならないし、

三つ、「願い求めるときの心」と「もらった後の心」が同じでなければなりません。
“祈りは神様から決裁を受けるためにすることだ。”

この御言葉を忘れずに、神様と御子主の前で深く祈って決裁を受け、求めたものをもらったら<心>変わりしないで、<恵みと愛>を忘れずに感謝し、愛して生きることを願います。

 

新しくやりなさい

[本 文] ローマ人への手紙12章2節
2)あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

 

ハレルヤ!

永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の愛と平安を祈ります。

人は行く途中<限界状況>に直面したら、「前の道」がふさがって前進できません。

このとき、栄え、勝利する道は「新しくやること」です。

新しくやることは「問題の答え」であり、「問題の解決」であり、「希望の方法」です。
新しくする方法は、一つ、「新しいところに行くこと」と、二つ、「その場で次元を上げて新しい方法でやること」です。
この二つの方法でやることが新しくやることです。
最初はどこから新しくすればいいのか、皆目(かいもく)分かりませんが、必ず新しくやらなければなりません。

 

新しくやりなさい。

この御言葉は「栄える生の道しるべ」です。
世の中万事、新しくやることが答えであり、蜜の味であり、ごちそうです。
新しくやれば、心配・悩み・憂いがなくなり、易しく楽で、理想世界で生きる人になります。
人はいつも新しくやってはじめて、<心と考え>も新しくなり、<行ない>も新しくなります。

そうすることで「新しい力」が湧き出、「新しい希望の火」がついて、「新しいもの」を再び得るようになり、宴会をするようになり、そこでまた「新しい力」を得るようになり、「新しい恵み」を得るようになります。
今日の御言葉を聞いて、各自<御子主の御言葉>を中心にして新しく行なうことで「新しいもの」を得ることを祝福します。

 

この記事を書いたブロガー

Luck
マスコミ勤務のB型系SEです!
摂理に出会い、人生の本当の味を見つけました。
真理を学び続けて自分づくりに励む毎日☆彡
楽しい社会人摂理ライフを描写していきます(^^♪

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