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鄭明析牧師による主日礼拝の御言葉♪その3

目次

いろいろな形象を備えてこそ美しく神秘的だ。次元を上げる方法

[本 文] マタイによる福音書11章29~30節
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
ある地形や万物が<いろいろな形象>を備えていると美しいし、また<いろいろな御働き>が起こると本当に美しく神秘的です。
<聖霊様の御働き>も本当に美しく神秘的で雄大です。聖霊が働きかければ、<単純な御働き>が起こるのではなく、<肉と考えと魂と霊を生かす命の御働き>が起こるから、その御働きが本当に美しく神秘的です。
<人間の鼻>を見てください。1ミリ、2ミリ、3ミリ高いだけでも、本当に高く見えます。みんな<現在の位置>から「次元」を上げなければなりません。一つ一つ行ないながら、さまざまに備えて次元を上げなければなりません。
<次元を上げる方法>がありますが、「平素」どおりにするのではなく、もっと「力」を出し、「熱心」を出して行なうことです。
<重いものを持ち上げる時>も「普通に」持ち上げることと、それより「力」を振り絞って持ち上げることとは、その次元が比べられません。これと同じくもっと「熱心」を振り絞って行なえば、<次元>が上がります。万事どんなことでも<次元>を上げるためには、もっと「力」を出し、「熱心」を出せばできます。
<次元を上げること>はちょうど「急傾斜をのぼること」と同じです。のぼって行く時は急傾斜で大変ですが、のぼって行ってみたら「平地」です。だから<のぼって行く時、次元を上げる時>さえもっと「力」を出せばいいです。
のぼって行ってその次元に行ったら平地と同じで、そのときからはそれほど「力」を出さなくてもいいです。だから<高く昇る時、次元を上げる時>そのとき最善を尽くすことです。
<信仰の次元>を上げることもそうです。2段、3段、4段に次元を上げれば上げるほど、もっと「力」を出さなければなりません。<次元を上げる時>、その時が本当に力がいります。しかしいざ次元を上げて「その次の次元」に行ったら、その時からはそれほど大変ではありません。
ある人はず~っと熱心にやっていたのに、いつも「最後の線」で落胆し、諦めます。<その次元の最後>は「一番の急傾斜」であり、「のぼり道」です。そのとき落胆せずにもっと力を振り絞ってのぼれば、のぼれます。それなのに、その時!つらいと言って諦めてしまうから「労苦したこと」が無駄になり、「労苦の対価」を得られないのです。
最後までのぼらなければなりません!その峠を越えなければなりません!その限界を越えなければなりません!そうしたら「次の次元」に行きます。
今日の御言葉を聞いて
“<高くのぼる時、次元を上げる時>その時はもっと「力」を出し、「熱心」を出さなければならない。のぼって行くときだけが大変なのであって、大変な思いをしてのぼりきったら、そこからは「平地」と同じで、大変ではない。”
この言葉を必ず肝に銘じて、忘れず、いつも脳に入れて持ち歩いて行なう皆さんになることを祝福します。

 

自ら行なう人は大変ではない

[本 文] マタイによる福音書11章29~30節
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
人は何か「ただ」で拾ったり、得たりしたら本当に嬉しいです。しかし実際「ただ」はほとんどありません。みんな過ぎた日に自分がどれだけ「ただ」で得たか考えてみてください。ほとんどないでしょう?「ただ」ばかり望んで生きたら、「得るもの」がありません。
だから「ただ」を望むより、条件‐対価で「行なわ」なければなりません。自分が労苦して作って行なって、期待以上に得れば「ただで得ること以上の喜び」が来ます。
試験問題を解く時も、ただで得たように山をかけて問題を当てるより、自分が労苦して勉強して問題をよく解けたら、それがもっと大きい喜びであり、やりがいです。会社でも「ただ」で何かもらったら嬉しいけれども、自分が労苦して行なって期待以上に認めてもらい、得たら、それがもっと大きな喜びであり、やりがいです。
万事全てがそうだし、信仰の世界においてもそうです。だから今年も熱心に行なわなければなりません。神様は御心の中で絶対に、行なったとおりにくださるから、熱心に行なうべきです。
道や市場では何もしないのに「ただ」ではくれません。お金を払って買わなければならず、それを買ったから「おまけ」でもっとくれることもあります。これと同じく私たちが行なってこそ、その条件の上に神様も「おまけ」でもっとくださり、行なったことの上に「ただ」でもっとくださって、財を得たように嬉しい気分にしてくださいます。
何もしていないのに、全く何もしないで「ただ」で得ることは難しいです。行ないつつ、自分が行なったことの上に「おまけ」でもっともらうのです。だから「熱心に頑張ること」が答えであり、「行なうこと」が答えです。
今日の御言葉!!?自ら行なう人は得て、大変ではないけれど、自ら行なうにしても、神様と聖霊様と御子と主を前に立てて、「頭」にして、行なう皆さんになることを祝福します。

 

御言葉充満、聖霊の御働き

[本 文]マタイによる福音書13章44節
コリント人への第一の手紙15章51~56節
ヨハネの黙示録19章11~16節
人は<最高のもの>を得て生きるのに、「価値」が分からなければ、力もなく、喜びもなく、希望も、甲斐も、満足もありません。
価値が分からなければ、<宝が埋もれている畑>を買っても、「喜び」がありません。
<他の畑>は「一般的な畑」なのに<自分が持っているその畑一つ>だけが「宝がいっぱい埋もれている畑」だから、どんなにうれしいですか?
それなのに価値が分からなければ、平凡なものと思います。<最高のもの>を得ても希望も感じられず、甲斐も享受できません。価値を悟ってこそ、うれしく、栄光です。
神様が人間に与える最高の祝福は<引き上げ>です。これよりもっと大きい祝福を享受するためには、これからはもっともらうより、価値を悟って「持っているもの」をもって使いつつもっと次元を上げて行ない、最高に喜んで生きることです。そうしてこそ<最高のもの>をもらい、それ以上にもっともらって、もっと享受して生きるようになります。

 

間違いは死まで招く

[本 文] 士師記16章17~18節
マタイによる福音書5章48節

<人間>は「神」ではないから、よくやっているつもりでも、思い浮かばなくて間違いを犯し、判断を間違って間違いを犯し、分からなくて間違いを犯し、分かっても扱う技術がなくて間違いを犯します。
人々はどうしてそのように「間違い」をたくさん犯すのでしょうか?<自分の無知>と<自分中心的な考え>で行なうからです。
<間違い>はさまざまな事故を起こし、心にも体にも大きな傷を負わせ、死まで招きます。<間違い>は「つまずかせる行ない」です。
間違うことなく行なう分、うまくいきます。だから間違いを犯さないためには「神」にならなければなりません。どのようにして「人間でありながら神」になるのかと言うのですか?絶対に「全能なる神様、聖霊様、御子を中心」にすればいいです。
間違いなくちゃんとやること!
必要のないことはしないこと!
順序どおりにすること!
これが人生も仕事も信仰も「成功する秘法」です。

 

極だ。変化だ。熱くやりなさい。

[本 文]  マタイによる福音書22章37節
『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』
泉も<極>で「水脈」に届いてこそ「水」が出てくるし、100メートル走をする時も<極>に行ってこそ「ゴールライン」が出てきます。<極>は「終わり」だから<極>に置かれるということは<終わり>までやるということです。

それならば<最高の極の次元>とは何でしょうか?心と思いと命を尽くした時が「最高の極の次元」です。神様と聖霊様と御子は<最高によい考えの極><最高によい極の世界>にいらっしゃいます。

心と思いと命を尽くして行(い)ってはじめて「その次元」に至るから、天の極である聖三位と地上の極である人間が一体となって、極に至る時まで、最後まで、熱く行うことで、生も変化し、永遠なものを嗣業として受け取ることができます。
行なう分、変わるから、みんな希望を持って感謝感激し、極に置かれて変化を成し、熱く行なうことを願います。

 

成長してこそ、神のようになって永遠に享受する。成長することが祝福であり、幸せだ。

[本 文] イザヤ書55章6節
あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。
近くおられるうちに呼び求めよ。
<種>から「命」が誕生します。果物も「種」で蒔いて「果物」になったし、<人間の肉>も「男女の命の種」で誕生し、<人間の霊>も「三位の命の種」で誕生します。
<命の種>は「この世で一番小さい種」ですが、「命になる貴重な材料」です。しかし大きくならず、そのままでいたら、何でもありません。一番偉大なことは「育てること、育てて変化させること」です。
大きくなった分「奇跡」が起こり、大きくなった分「愛」も受け、「祝福」も受け、享受します。
大きくなるためには、「自分」を夜も昼も育てなければなりません。神様も、聖霊様も、御子も、「会う時」があり、その時が「自分が成長する時」です。その時、心を尽くし、思いを尽くし、命を尽くして、極的に熱く行なって、成長しなければなりません。
育てることは「偉大なこと」であり、成長することが「祝福」で、「幸せ」です。成長してこそ「神」のようになって永遠に享受するから、勤しんで自分の時に自分を育て、変化し、「奇跡」を起こし、連続して「喜び」が絶えない天国の生を生きることを祝福します。

 

自分が好きであれば、もっとよいものに見えて、もっと愛するようになる

[本 文] ローマ人への手紙12章11節
『熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、』
(韓国語聖書:『勤しんで、怠けずに、熱心を抱いて主に仕えなさい。』)
<人>も自分が先に好きであってこそ、その人に欠点があっても、その人がどんな姿でも、もっとよく見えて、もっと愛するようになり、<何かの物や存在物>も自分が気に入って好きであってこそ、他のどんなものよりもそれをもっと大きく思い、価値あるものとして思い、もっと好きになり、喜ぶようになります。
<神様も聖霊様も御子>に対してもそうです。
好きであってこそ、目立って見え、もっとよいものに見え、神秘的に見え、美しく雄大に見え、もっと近くし、愛するようになります。
自分が好きであれば、心が熱くなります。熱ければ、心も考えも行ないも、もっと「輝き」を発し、生も人生も信仰も、もっと「味」があり、考えも行ないも霊も、もっと美しく雄大で神秘的になります。
皆さんみんなお湯が沸くように熱くできるし、溶鉱炉のように熱くできます。<好きな祝福を受けた人>、<好きな祝福を受けて続けて熱くして変質しなかった人>が「最後」まで行なって、「極」にのぼるようになるから、好きで熱心に熱く行う皆さんになることを祝福します。

 

1.自分が願っていたことが駄目になっても失望するな。もっとよいものをくださる。2.行なう人は攻撃し、行なわない人は攻撃される。

[本 文] ガラテヤ人への手紙6章9節

『わたしたちは、善を行なうことに、うみ疲れてはならない。

たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。』

(韓国語聖書:

『わたしたちは善を行なうが、落胆すべきではない。

     あきらめなければ、時が来て刈り取るようになる。』)

自分自身や、命や、自分の子を管理し教える時、<穀物>や<さまざまな果樹>だと思って接しなければなりません。教える時、育てる時、管理をする時、腹が立つからといって、大変だからといって、うまくいかないからといって、気持ちを痛めつけられたからといってやめることなく、その時、持続的に水をやり肥料を与えるように、そのようにしなければなりません。

<穀物の農作>をいつまでし、<果樹>をいつまで育てますか?穀物と果実を刈り取る時までです。農作をするように、果樹を育てるように、刈り取る時まで、手も、心も、目も離さず、持続的に!最後まで!極まで!何としても!やるとき、より良いものをもらうようになります。

これがまさに「行なった人」であり、「心と思いと命を尽くしたこと」です!結局、<行なった人>は「攻撃する生」を生きるようになり、<行なわない人>は「攻撃される生」を生きるようになります。

毎日行なってください!行なってこそ、「問題」が解決します。ただでは「問題」が解決しません。生活の中でも「生活の敵たち」がいるから、やはり行なうことで攻撃して解決するようになります。

極で熱く最後まで行なえば、最初に願っていたものより、「もっとよいもの」を得るようになるから、チーターのように極に走り、鷲のように極に飛んで行なうことで、最初願っていたものより「もっとよいもの」を得、<ウサギ>を追いかけているうちに<鹿>に会って捕まえてきて、<鳥>を追いかけているうちに雉(きじ)に会って捕まえてくる御働きが起こることを主の御名によって祝福します!

 

頭は主だ。あなたたちは各肢体だ。引き上げの理想世界。

[本 文] コリント人への第一の手紙12章25~27節
全能なる神様は<人間>を「個性」で創造なさいました。
人の「顔と体の構造」はみんな同じですが、「考えるところ」が違うから、<行なうこと>が違い、<希望し追及すること>がまったく違います。
イエス様は「ついてくる人たち」を「羊の群れ」に譬(たと)えて、ご自身を「牧者」だとおっしゃいました。
羊の群れを見てください。柵の中にいる羊たちも、それぞれ個性どおりにいます。牧者は羊の群れを導く時、全体を一つに集めて安全な柵の中に入れてやり、その中でそれぞれ「個性」どおりに存在するようにしてあげます。
人の<各肢体>は「それぞれ」ですが、頭を中心として「一つ」として存在します。<それぞれ>でありながら<一つ>であり、<一つ>でありながら<それぞれ>です。
人間も同じです。頭は主であり、各肢体は私たちだから、<主>の中で一つに集まるようにするけれども、個性どおりに使命を果たし、働きながら、みんな一つになって行なって「御心」を成していくことを願います!

 

3.16に御子がおっしゃった御言葉と引き上げの歴史

[本 文] マタイによる福音書18章18節

『よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、

あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。』
喜びと満足は、はっきり聞いて分かって綿密にちゃんと準備をした時、来ます。
神様と聖霊様と御子の前でも、三位が願われるとおりに、気に入るようにちゃんとやってこそ、喜びと満足です。
地上でちゃんと満足するようにやってこそ、天でも満足し、喜ばれます。つまり地上で解いたから、天でも解かれました。
全能なる神様の御心を成就するということは、そんなに易しいことではありません。地上でみんなすべてを備えてこそ、歴史が起こります。
これからは私たちは「主に仕える生活」をしなければなりません。今年は<教育の年>だから、本当によく学び、分からなければ、繰り返して学びつつ熱く悟り、行うことを祝福します。

 

生活の愛だ

[本 文] テサロニケ人への第一の手紙5章16~18節

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。
神様と聖霊様と御子主と「瞬間の対話、瞬間の関心、瞬間の考え、瞬間の愛」は易しいですが、「生活の中で毎瞬間の愛、毎瞬間の考え、すべてにおいての対話」が難しく、連続的に行なわなければならないから難しいです。
毎日「生の中」で、「生活の中」で、三位と主の考えと一体になって、毎瞬間忘れず三位と主を愛し、交通して、「愛の生活」をする人が「偉大な愛」をする人です。
子供がよい時も悪い時もお母さんにぴったりくっついて一緒に行なってこそ、ミスもなく、危険もないように、いつも神様と聖霊様と御子主と一緒に行なうことを願います。
<最高に高い愛の次元>はどんな姿でしょうか?
神様と聖霊様と御子主と、考えも体も一体になって、一緒に行なって生きることです。
生活の愛の始動は自分がかけてこそ、やる分だけ感じ、得て、享受するようになるから、三位と毎瞬間離れず、一体になって、毎日成長し、毎日変化することを祝福します!

 

知らない人は盲人だ。整理と消却

[本 文]ヨハネ第一の手紙4章6節
しかし、わたしたちは神から出たものである。神を知っている者は、
わたしたちの言うことを聞き、神から出ない者は、わたしたちの言うことを聞かない。
これによって、わたしたちは、真理の霊と迷いの霊との区別を知るのである。
人は「あること」が分からなければ「その面の盲人」です。
眠っていたら分からないように、分からない人は「眠っている人」と同じで、「盲人」と同じです。
人間の肢体を見てください。
各肢体がありますが、全ては<頭>が分かって、「各肢体」にすべきことを指示するようになります。
<肢体>は<頭>が教えてあげなければ一生分からず、分からないから行なえなくなります。
神様と聖霊様と御子の御心が分からなければ「盲人」です。
頭と肢体を正しく知らなければ「盲人」です。
「盲人」から抜け出すためには、<目の開(あ)いている人>と一緒に行なわなければなりません。
聖書に<頭>は「主」で、従う人たちはみんな「各肢体」と同じだと言いました。
だから主と一体になって、主が言う言葉を信じてこそ盲人から抜け出すようになります。
みんな今日の御言葉を聞いて、自分が盲人のような考えをしたかどうか悟って、翻(ひるがえ)すことを願います。

 

成分の人生だ

[本 文]?箴言13章13節
み言葉を軽んじる者は滅ぼされ、戒めを重んじる者は報いを得る。
<成分>とは、言い換えると「性質」です。
つまり「それが持っている固有の特性」のことです。
人にも<成分>があります。
この<成分>は心と考えの質、品性と思考の質によって左右されます。
そして<心と考えという成分と質>によって人生の運命が左右されます。
なぜかと言うと、人間は脳で「考えたこと」を「体」で行なって生きるから、人間は<心と考えの成分と質>が本当に重要です。
<花の蜜>はそれほど甘くないですが、「花の蜜の成分」と「蜂の成分と質」によって「蜜」が作られます。
しかし<さとうきび>は「花の蜜」よりずっと濃くて甘いけれども、それでは「蜜」を作れません。
<成分>のせいです。
<花の蜜の成分>で「蜜」が作られるように、人間も<成分>によって「生」が左右されます。
しかし<成分>を持っている人でも必ず自分を作らなければなりません。
<蜂>が「花の蜜」を運んできて貯蔵して<蜜>を作るように、「神様の御言葉」を聞いて、<三位一体と主>と共に<自分>を作らなければなりません。
命を尽くして自分を作ったら、自分が持っている「成分と質」によって「変化」を起こすから、<貴重な成分の神様の御言葉>を聞き、一層<自分の成分>をよく作っていくことを祝福します。

 

<自分の体>を悟りなさい

[本 文]?ルカによる福音書9章25節
「人が全世界をもうけても、
<自分自身>を失いまたは損したら、なんの得になろうか。」
全能なる神様は私たちが一生の間食べて使って享受できるように、<体>を創造してくださいました。
<体>は「一つ」ですが、<体の肢体>は「いろいろ」です。
目、鼻、耳、口、手、足、腕、脚など「各肢体」は形も形象も違い、機能も違います。
<自分の体>をもって「肢体別」に開発して行ない、<一つの体>をもって「いろいろなこと」を行ないつつ、多様な美しさと感じと感動を感じさせ、いろいろな希望を成して享受させるのです。
このように<体>をよく育て管理して、神様の御心どおりに開発し、<脳と考え>も霊的に開発して生きたら、一生よくなり、栄えます。
これからはみんな「自分の貴重な体」をもって、願いも目的も成し、祝福も栄光も受け、自分の霊を天国まで行かせる格好良い人生を生きることを祝福します!

 

<人間>もどう接し使うかにかかっているし、<環境>もどう接し使うかにかかっている

[本 文] ヨハネによる福音書5章24節

よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。
<人>も<環境>も「接し方」にかかっています。
何をもって接するのかと言うのですか?

<自分の行ない>で接するのです。

<同じ器>があっても「どう接し使うか」によって「おしっこを溜めて捨てる尿瓶(しびん)」として使うこともできるし、「水を入れて野菜畑に水をやる器」として使うこともできるし、「薬の壺」として使うこともできるし、「食べ物を入れる器」として使うこともできます。

接し方によって「取るに足りないように」、あるいは「より貴重に」使うようになります。

<ごみ>も「どう接し使うか」によって、ただ捨てる場合もあるし、リサイクルして貴重に使う場合もあります。

このように人生も<自分の体>と<自分の居場所と環境>も「どう接し使うか」にかかっているから、その形と構造がどうであれ、世の中で一番貴重に!接して使うことを願います。

そうすることで「最高によい運命」に変えることを祝福します!

 

失った人を探してきなさい。私の命たちを連れてきなさい。自己管理、命管理、もらったものの管理だ。

[本 文] マタイによる福音書18章12-14節
12)あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
13)もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
14)そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。

素晴らしい家を建てておいても管理しなければ、すぐに古びるし、美しい庭園も管理をしなければ、すぐに藪(やぶ)になってしまいます。いい自動車を買って運転しても、管理しなければ、すぐに故障します。<得ること>も重要ですが、<管理すること>が本当に重要です。

<管理>によって「それまでやっておいたことの運命」と「それまでもらったものの運命」が左右されるから、神様がおっしゃる命の御言葉を中心にして、よく聞かなければなりません。

管理する時は、ダビデが羊を管理するようにしなければなりません。獅子やオオカミが来たら羊たちだけでは勝てないから、牧者がすぐに追いかけて行って獅子やオオカミを捕まえてこそ、羊たちの管理ができます。

これからは<自己管理>、<自分に属したものの管理>です。そして<命の管理>、<自分の生に属した存在物の管理>です。<管理>は「アルパからオメガまで」です。

 

神様の考えはあなたたちの考えとは異なる。 一人を、一つを神にするな。

[本 文] イザヤ書55章8~13節

8)わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると/主は言われる。

9) 天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

10) 天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。

11) このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。

12) あなたがたは喜びをもって出てきて、安らかに導かれて行く。山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、野にある木はみな手を打つ。

13) いとすぎは、いばらに代って生え、ミルトスの木は、おどろに代って生える。これは主の記念となり、また、とこしえのしるしとなって、絶えることはない」。

マタイによる福音書5章43~48節

43) 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
44) しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。

45) こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。

46) あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。

47) 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。

48) それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

<全能なる神様の御言葉>で全人類の命が左右され、祝福が左右され、個人と教会と民族と世界の運命が左右されます。

人間は「考え』で人生を生きていきます。信仰がある人が「神様の考え」で生きることができなければ、信仰がない人と違うところがありません。

私たちも「考え」で人生を生きるけれども、「神様の考え」をもらってその考えで生きることです。

<神様の考え>どおりに経営すれば、易しく、神様も一緒に行なわれるから、神様の御心どおりにできなかった全てのことを悔い改め、「神様の考え」で生きていく人生になることを祝福します。

 

祈りは入力だ。 三位一体は「人間が使う言葉」と「人間が使う存在物」で話され見せてくださる。 三位一体は「比喩」を使って話される。

[本 文] マタイによる福音書13章13節
『だから、彼らには譬で語るのである。
それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。』

マタイによる福音書13章34-35節
イエスはこれらのことをすべて、譬で群衆に語られた。譬によらないでは何事も彼らに語られなかった。これは預言者によって言われたことが、成就するためである、「わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」。

神様と聖霊様と御子はどのように話され、どのような方法で行なって、人間が聞いてよく分かることができるのでしょうか?

三位一体は『絶対神』だけれども、<天の国の言葉>で話さないで、<人間が使う言葉>で話し、<神様が創造なさった万物>と<人間が使う存在物>を利用して話し、見せて下さいます。

人がいつも使って見ているから、その方法で話し、見せてあげれば、難しい内容もよく理解し、すぐに分かって悟るようになるのです。

皆さんも聖三位のように上手に話をし、よく理解させてあげるためには、「相手が使う言葉」と「相手に該当すること」を比喩を使って易しく話せばよいです。

これから生の中で三位一体が、私たちが使う言葉や万物、存在物を使って、比喩で見せてくださり話されたら、主に感謝し、<比喩>を悟って胸がす~っきりするように行なって生きることを祝福します!

 

考えが距離だ。考えと体が別々に生きたら、虚しく空虚だ。

[本 文] イザヤ45章11-12節

イスラエルの聖者、イスラエルを造られた主はこう言われる、

「あなたがたは、わが子らについてわたしに問い、

またわが手のわざについてわたしに命ずるのか。

わたしは地を造って、その上に人を創造した。

わたしは手をもって天をのべ、その万軍を指揮した。

人間は50メートル、100メートル、200メートル、500メートルと距離を計算し、これでどれだけ近くにいるか、離れているか、計算します。

しかし神様と聖霊様と御子はこのように「距離」を計算することはなさらず、<考えること>によって、そば近くにいるのか、遠くにいるのか、「距離」を計算します。

神様と聖霊様と御子と、考えと心情がよく通じ、考えと心情が一体になっていれば、<三位との距離が離れていない状態>です。

しかし考えと心情がよく通じず、一体になっていなければ、三位との距離が百里、千里まで <遠く離れている状態>です。

神様と聖霊様と御子と、考えと心情がよく通じ一体になるためには、毎日三位一体を忘れずに、愛し、考え、いつも交通して生きなければなりません。
また<自分が犯した罪>は、小さくても大きくても、毎日悔い改めて清潔にしなければなりません。

みんな三位と主の前で距離なく完全に一体になる生を生きることを願います。

 

対話で解きなさい。解いてこそ和睦するようになる。

[本 文]

マタイによる福音書5章23~24節

23)だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、

24)その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。

イザヤ書55章6~11節

6)あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。

7)悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。

8)わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると/主は言われる。

9)天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

10)天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。

11)このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。

<和睦する上での核心>は何でしょうか?

それは「互いに対話して解くこと」です。

<対話>で解き、<対話>で自分の願いも叶えるのです。

そうすることで互いに解け、和睦するようになります。

神様は<御言葉>で「天地」と「人間」を創造なさいました。

そして<御言葉>を与えて、私たちがその御言葉を行なえばそれによって「私たちの霊」が変化し、引き上げられるようになさいました。

神様はこのように地球世界の73億人みんなに対面して、<御言葉>で、<言葉>で議論して、解いてくださり、和睦するようにしてくださいます。

「絡まり、わだかまりになっていること」は<言葉と対話>で解き、<悔い改めと謝(あやま)ること>で解かなければなりません。

<和睦>は「真実な言葉と対話」で成されるということを忘れずに、お互い対話で心のわだかまりを残すことなく解いて、和睦を成して生きることを願います。

 

罪を悔い改めなさい。やらないことが悔い改めだ。

[本 文] ローマ人への手紙6章23節

<悔い改め>は「言葉」と「行動」ですることです。

兄弟に間違ったことがあれば、まず<兄弟>に「言葉」で自分の間違いを告げ、また「二度とそのような行為」をしないことで悔い改めなければなりません。

そうしてから<三位と主>の前で悔い改めなければなりません。

三位と主の前に罪を犯したなら、まず「言葉」で自分の罪を告げ、その時から「二度とそのような行為」をしないことで悔い改めなければなりません。

みんな<御言葉>を聞いて「自分の状態」を点検しながら毎日「悔い改め」ることを願います。

毎日悔い改めて「義人」になり、「真の新婦の生」を生きてみてください。悔い改める前と違うのを感じるでしょう。

これからは<愛している>という言葉より、<悪かった>という言葉がもっと「和睦と愛の火」を起こすということを真実に悟ることを願います。

 

<自分がすべきことをすること>は「命」と同じだ

[本 文] ヨハネ第一の手紙2章5-6節 

『しかし、<彼の御言葉を守る者>があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。

「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。』

小さくても大きくても<自分がすべきことをすること>は、「食べたい時に食べ物を食べるように絶対に重要で必要なこと」です。

<すべきこと>は必ずしてこそ、掃除をするようにきれいで、病気のところを治療するようにうれしく、古いものを葬るようにすっきりします。

<すべきこと>をしたら、その時から早速「仕事のはずみ」がつき、その時からは<次にすべきこと>に繋がって、次のこともよくできます。

<自分のすべきこと>をすれば「願い」がかなえられるから、今この時、誰かが分かってくれなくても、気分を害させても、「神様の御心」に従っていくことが、<自分が必ずすべきこと>だということを絶対に忘れずに従うことを祝福します!

 

摂理人同士で競って勝利するのではなく、 生活の中で<自分のすべきこと>を行ないながら、「悪」と競って勝利することだ。

[本 文] エペソ人への手紙6章5~22節

世の中では「最高の人」を選ぶ時、100人でも1000人でも互いに競争し、競い、退かせ、上がって来た人を一位、二位、三位に決めます。

だから互いにいつも「競争」であり、お互いに「勝ち負け」に敏感で、だから「困ったこと」が頻繁に発生します。時には「友だち」とも、「愛する人」とも競わなければならないので、悪いと思って自分の能力を発揮できない場合もあり、本当に矛盾です。
<神様の世界、信仰の世界>は「この世でやる方法」とは全く違います。イザヤ書55章9節のように<神様の方法>は「天が地より高いように高い方法」です。

公義でいらっしゃる<神様の方法>は、誰でも「自分の個性」と「才能」どおりに成功する方法であり、他の人に差し支えがなく行なって成功し、勝利する方法です。

各自「自分の個性」どおりに「自分の生の道」で神様の御言葉を聞いて守って、<サタン、誘惑する者、惑わす者、悪評者>と戦い、競って勝ち、心と思いと命を尽くして「義」を行ないつつ成功することです。
今日の聖書の本文の中でエペソ人への手紙6章12節を読むと「私たちの戦いは<肉の戦い>ではなく、各自世の中、サタン、不義、悪、自分の肉性と一対一の戦いで勝利することです。だから自分がやろうとすれば、いくらでも成功し、勝利します。
神様の方法は<競争>でも、<後ろ盾>でも、<不正>でもなく、自分のすべきことをしながら、自分の前に置かれた「生の状況と競って勝つこと」だから、これからみんな<神様の方法>どおりに認識し、行なって生きることを願います。

 

<祈り>は「仕事」だ

[本 文] ヨハネによる福音書14章14-15節

14)何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。

15)もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。

人は生きていく中で「仕事」をします。

<仕事>をすれば苦労し、大変ではあるけれども、それによって問題も解決し、得ることもあります。

<祈り>はちょうど人間が生きていく中で「仕事をすること」と同じで、<仕事>をすれば解決するように、<祈れ>ば解決します。

しかし<仕事>をするからといって、一日にして解決するのではなく、長い間労苦し、苦労しながらやってこそ解決するから、大変です。これと同じく、<祈り>も長い間祈ってはじめて解決するから、祈ることが大変です。

苦労はしても、<仕事>をしさえすれば、<目的>は成就するように、神様の前で主の名前で最後まで真実に<祈り>さえすれば、神様も自分も投資したので、必ず成就します。

仕事も<目的>をもって、完成する時まで働いて終わらせるように、祈りも<目的>をもって働き、成就する時まで根気強く祈って解決するのです。

また、目的としたことが成就する時まで<祈り>つつ、<それに関することを行なわ>なければなりません。

これから心に「善」を抱き、「神様と主」を抱いて、毎日祈る皆さんになることを祝福します。

 

成功と勝利をするためには 速くやることだ。直すことだ。たくさんやることだ。

[本 文] イザヤ書19章1節(核心の拝読)

『見よ、主は<速い雲>に乗って、エジプトに来られる。

エジプトのもろもろの偶像は、み前に震えおののき、エジプトびとの心は彼らのうちに溶け去る。』


マタイによる福音書5章48節(核心の拝読)
『あなたがたの天の父が<完全であられる>ように、あなたがたも<完全>な者となりなさい。』

コリント人への第二の手紙9章6節(核心の拝読)
『少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、「豊かに」まく者は、「豊かに」刈り取ることになる。』

万事すべてのことは<時>に合わせて、やらなければなりませんが、<成功し、勝利したこと>を見たら、すべてすべき時に急いで速くやりました。

<神様の御心>のために行なう時も、<自分の目的>のために行なう時も、速くやってこそ「成功し、勝利する可能性」が高いです。

<勝敗を競う試合>をする時も、<生>を生きる時も、「もっと速くやる人」が成功し、勝利します。

<よくできる人>になるためには、自分の足りないところを直さなければなりません。結局<よくできる人>というのは「直した人」だと言えます。<開発>も<悔い改めて新しい人になること>も「一つの、直すこと」です。<毎日自分の矛盾と間違った心と思考と行ないを直す人>が肉的にも霊的にも得て、主と共に宴会をし、享受し、成功し、勝利するようになります。

たくさんやれば、「しるし」が起こり、「人間でありながら神」になります。

主の中で<仕事をちゃんとたくさんやった人>が、<少しだけやった人>よりもっとたくさん変化し、もっとたくさん得、成功し、勝利しました。

今日の御言葉を聞いて感動を受けましたか?

成功し、勝利するためには<速くやること、直すこと、たくさんやること>、この三つのことを集中的にやって、「同時」に考えてやらなければなりません。みんな感動を受けた通りに、急いで「速く」行なうことを願います。

 

自由意志 しかたがある信仰としかたがない信仰

[本 文] マタイによる福音書7章21節 

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、

ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

神様は人間に「自由意志」をくださいました。

神様が救い人を通して<御言葉>をくだされば、その御言葉を聞いて信じるか信じないか、御言葉を聞いて行なうか行なわないかは「各自本人」がすることです。

いくら神様と主がおっしゃっても、自分がどのように考え、判断し、行なうかによって<自分の人生>が変わるようになります。

これが<神様が定めた順理と公義の法則>です。
結局<自分の自由意志>を間違って使えば、しかたがない信仰になり、<自分の自由意志>を「神様と聖霊と主」に任せて生きれば、しかたがある信仰になります。

御言葉を聞いて、<自分の自由意志>をもって<神様と聖霊と主の方向>によく使わなければなりません。

いくら神様と主が貴重に思って命の糧を与えても、<自分>が「毎日根気強く、最後まで」行なわなければなりません。

みんな「自分の考え」をよく顧みて、いつも目を覚まして慎み<主の考え>と遠ざからないようにすることを祝福します。

 

信仰の居眠りをせず、慎み、目を覚まして行ないなさい

[本 文] ペテロの第一の手紙5章8節

身を慎み、目をさましていなさい。

あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを

求めて歩き回っている。

みなさんも瞬間居眠りをし、眠った経験があるでしょう。

バスや電車に乗っていく途中、瞬間居眠りをして、降りる時なのにそれも知らずにそのまま乗り過ごしたり、ある時は運転をしている時、瞬間無意識に居眠りをします。
気を引き締めずにぼうっとして考えていたら、どんな場所ででも、うっかり居眠りをしているうちに眠ります。
目標を定めず、気を引き締めず、集中しなければ、これが居眠りをし、眠ることと同じで、その時すうっと「違う考え」が入ってきて、「違う行動」をして、自分の位置から離脱するようになります。

<生活の居眠り、信仰の居眠り、信仰の眠り>とは、「神様の御言葉どおりに生きずに違う考え、雑な考え、違う行動をして生きる瞬間」のことを言います。

このような人は「居眠りし、眠りながら運転する人」と同じです。
<肉体>も「眠くなる時」抜け出さなければ、思わぬうちに眠りにつくから生活をする中で「眠気」が来たら、チーターのように素速く走り、動作を速くして火のように動かしてこそ「眠気」から抜け出し、「眠り」に陥りません。

<眠りを治める方法>があるように、<生活の中の居眠りと眠りを治める方法>がありますが、それは最初に眠い時、初期に滅ぼして治めることです。
初期は、「砂一粒」と同じで、治めることがとても簡単だから、<火種が起こる時、火災の初期>に火を消すようにやらなければなりません。

生活の中の眠気も、悪い考えも、不義も、何かの問題も、<初期>に小さいと軽く思うのではなく、<初期>に火を消すように処理をしなければなりません。
<居眠りの初期>に「火のような精神と行動、火のような御言葉」をかけて、死から抜け出すことです。

どんな状況ででも<神の精神>を持ってこそ、<神のような力>が湧いて、さまざまな事故から、信仰の眠りから、さまざまな生活の眠りから抜け出し、肉の死からも、永遠な死からも抜け出すようになるから、みんなこのことを悟って、慎み、目を覚まして行なうことを祈ります。

 

 

この記事を書いたブロガー

Luck
マスコミ勤務のB型系SEです!
摂理に出会い、人生の本当の味を見つけました。
真理を学び続けて自分づくりに励む毎日☆彡
楽しい社会人摂理ライフを描写していきます(^^♪

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