「悔しい」と思うことは、悪いことでない。

こんばんは、satoです。

今日は「悔しい」という話について書きたいと思います。

自分が何かを望んでいて、その通りにならなかったとき。
うまくいくチャンスがあったのに、頑張れずに逃してしまったとき。
何も知らずにチャンスを失ったことを、後から知ったとき。
人は「後悔」をします。とても悔しく思います。

私は、何かを望むことをあまりしませんでした。
何故なら、うまくいかなくて「後悔」したときに…そのことに執着してしまうから。
どんなに後悔したとしても、その時は戻ってこない。
そのことを分かっているけど、でも、どうしても「失ったもの」を見てしまう。

だから、私は「失敗」が嫌でした。
そして、「失敗したことを認める」ことが嫌でした。
「失敗したことを認める」ということはすなわち「自分が得られるはずのものが得られなかった」ということを認めることだから。
私は「得られるものはとにかく得たい」という物欲、というか所有欲が非常に強く、それを逃したことをとても苦痛に感じるタイプの人です。得られないとわかったらスッパリ切れるのですが(笑)
だから、「後悔」だけはしたくなかったのです。失敗したとしても、それで「失った」という事実は本当に認められませんでした。
それが、「自己合理化」、つまり「言い訳」をする理由でもありました。

しかし、摂理に来てから「この認識」が大きく変わりました。
それは、次のことを御言葉で教えてもらったからです。

1.一度チャンスを逃し、失敗したとしても、神様は「二度目」のチャンスを与えてくださる。
つまり、「失敗したこと」を取り戻せる機会が必ず訪れる。

2.うまくできなかったからといって、自分を「ダメ」と見捨てる神様ではない。神様はいつでも私を愛してくださっている。

大きくはこの二つです。
実際、摂理に来てから御言葉でもこの二つを教えていただき、また実際に体験もしました。
多くの失敗がありましたが、それでも取り戻すチャンスが必ずありました。時には「最初のもの以上」の結果を得ることもありました。
また、失敗した際にも誠実に謝り、フォローをしっかりすれば多くの人は許してくれ、その失敗を責めないということも経験しました。
そうして、「このように神様もそうだ」と学びました。

「後悔」、「悔しさ」、あるいは恨(ハン)。恨(ハン)とは「過去こうしたかった」という言葉にならない思い、未練を表す韓国語です(こちらの記事も参照ください)
それらは「次に来るチャンスを逃さないため」に与えられたものでもあります。
「次は絶対に失敗しない」、「こういう思いをしたくない」。
そういった思いが私たちに次のチャンスをつかむための行動を熱くさせ、繰り返し練習できるようにします。
だから、「悔しさ」を持つことはいいことでもあるのです。正直、辛いですけど(笑)

「悔しい」と思うことを苦痛に思わず、次へのステップとしていきたいですね!

私の場合、あまりに悔しさを抱きすぎて…感覚がマヒしているところもあります。
「解決できない」悔しさがありすぎて、それから目をそらしていて、それゆえ無気力に陥っていたところもありました。
自分の心と向き合う中でこれらのことは少しずつ解決していましたが、「悔しさを回避するために熱を上げない」というスタイルは未だに直っていないように感じます。体質を、改善しないとですね。

もしかしたら、まだ知らない、あるいは見過ごしている「失敗」と「それによって失ってしまったもの」があるのかもしれません。
熱が上がらない、という方はそれを見つめなおすのも一つの手かもしれません。
臥薪嘗胆ということわざもありますし。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。