こんばんは、satoです。
ブログを書いてていつも思うのは「自分の気持ちが整理される」ということ、そして「このブログの内容も神様はご覧になっている」ということです。
昨日、ネットにある様々な批判の言葉を聞いて思ったことをそのまま書きました。そうしているうちに、とても心が落ち込んでしまいました。
それは、自分の書いている内容を見ながら、自分が見てきた言葉によって自分の心が思ったより傷を受けていたことに気づいたからです。
そうしながらブログを書き終えた後、お祈りしている中で
このような言葉を聞いて、神様がどれほど心を痛められているのか
主はどれだけ心が痛かったのか
を感じて、本当に涙が止まりませんでした。どうにかして神様を慰めようとお祈りをしていました。とにかく愛を…と思って。
自分の心が痛い、ということよりとにかく神様のことが…。
そういう心はありましたけど、横になっているうちに眠ってしまいました。
そして次の日、今日の明け方にこんな御言葉を聞きました。
新郎のために行うなら、
「新郎の立場で」さまざまなことを考えてみなければならない。
そうしてこそ、新郎が何を本当に願っているのかが分かるのではないか。
主のために行うと言うが、自己満足の愛が多い。
自分の立場で一つのことだけを考えないで、
主の立場でさまざまなことを考えて
主のための生を生きる人が、
真の引き上げられた新婦の生を生きる人ではないか。
相手の立場に立って考える。
まさに昨日ブログで書いていたことが伝えられていました。
愛する人の立場に立って考えなければ、たとえ相手が好きだとしても、相手のためにやったことだとしても、それは相手を傷つけることになります。
「その人を本当に愛する」なら、その人のことをたくさん見て、たくさん観察します。より正確には「自然と、気が付いたら」たくさんじっと見ているようになります。
そうするうち、いつの間にか相手が何を願っているのか、相手の動向、心情を感じられるようになります。
それこそが「自分を捨てた状態」と言えるのではないでしょうか。
そういえば、私自身がどこかで神様への愛が冷めてしまっていたところがあったなぁと気づきました。
そういう状態だと自分が中心になり、心に余裕がなくなって些細なことも許容できなくなります。
いったいどこから冷めてしまったのか…振り返ると、おそらくあのことかな…と思っています。
今年立てた「霊も肉も両方とも頑張る」ってことができなくなっていました。まさに一つだけのことしか考えられていなかったし、一つしかできていなかったのです。
神様と約束を果たそうとするとき、つまり「神様と私だけの愛」を成すとき、愛が爆発的に燃え上がります。
そして、それをするときも神様に尋ねながら、意向を聞きながら…「共にしよう」ということをしなければならないのです。
私って…実を言うと何かをするときの「お祈り」がかなり形式的、と言いますか「祈ったからいいか」という感じにしていたんですよね。だから、あんまり感動が来なかったのです。このあたりのずれが少しずつ響いていたんです…。
今日もブログを書きながら、自分の足りないところを整理しました。
正直これをブログに挙げても仕方ない、という考えもありますが…(笑)
やっぱり、摂理にいながら疲れたり、辛くなったり、大変なことは正直あります。そして、それは(全員でなくても)多くの人が案外抱えているものです。
摂理にいる人も、一人の人間です。泣いて、笑って、辛く思って、喜んで…そういう「普通の、自由意思を持った人間」です。
だから、摂理のそういうところを少しでも伝えられたら、と思い率直な私を書きました(´・ω・`)
自分自身、ブログを通して信仰の支えになっているところは大きいです。辛い時も、このように自分の気持ちを整理できるから。
また、御言葉を考え、悟り、神様の心情を感じられるから。
だから、私は今日もブログを書くのです。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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