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「手を抜く」ということ。

「手を抜く」ということ。

こんばんは、satoです。

最近私は「霊と肉、両方を得る」生活に挑戦しています。
霊的なこと、つまり信仰生活もしっかりし、霊的な目標、自分の変化を成すこと。
肉的なこと、つまり研究もしっかりとし、論文を作成すること。
この2つ、どちらも「自分がしたいこと」。それを成し遂げようと生活をしています。

やってみて改めて気づいたのが…「今まで、私はどれだけひどい生活をしていたのか…」ということ。
あまりに生活リズムが整っていなく、自由な時間の半分がスマホやネットをいじる生活。これでは目標を成せないよな…と生活の改善を切に感じました。

でも、よくよく考えてみるとこの「ひどい生活」と私が言っている習慣も今までは「ひどい…」と思っていなかったわけです。
それは「自分の中で成し遂げたいと思うこと」がハッキリと立っていなくて、そこに対する気持ちが弱かったため。
だから生活がなあなあでも良くて、改善の必要性を感じ取れなかったわけです。

だから、こうやって「成し遂げたいこと」があって、成し遂げるための生活ができているだけでも大きな変化なのです。
そこに本当に感謝です。

それにしても、すべてのことを100%行なうのはとても大変です。
少し「手を抜く」ことを覚えたほうが良いかもしれません(^_^;)
たとえば、バイトではある程度の部分を「手を抜いて」います。もちろん、すべきことはしっかりしていますが、ゴールがハッキリとしているからそこに行くまでの必要最小限の行動が出来ます。
もっと具体的な話をすると…
洗浄機で洗うから、最初にスポンジで磨く時は残飯とかひどい汚れが取れるくらいで良い。
重要なのは、いかに早く戻していくか。だから多少の汚れはあってもいい。

「食器を戻す」ということに集中して洗うのは余裕がある時、というように力を配分しているのです。

こんな感じで「何をすべきか」が分かれば、自ずとどこに力を注げば良いのかも分かります。
必要のないところは「手を抜く」わけです。
これをブログでも、論文作成でも、信仰でも出来るようにしたいです。

信仰だって、何でも100%すればいい、というわけではありません。(いい意味で)力を抜くことも必要です。
たとえば、いつも全知全能な神様を恐れて畏まって生活…なんて、保たないじゃないですか?(笑)
礼拝の時には神様を敬拝し、神霊に臨みますが、生活の中でまでそうしてたら、息が続かない(笑)
普段はもっと「リラックス」して、神様を呼びながら生活しないと、一緒にいられません(^_^;)
信仰生活が長い人は、こういうところが非常に上手な気がします。力を入れるべきところは入れ、抜くべきところは抜く。ただ、いつも神様と共にしているのには変わりありません。

その点、私はまだまだな気がします。まだ、すべてのことを真剣に、あるいは深刻に捉えがちです。
逆に、必要な所に力を注げていない気がします。

「神様は私のことが好きで、私も神様のことが好き。だから、信仰生活を楽しもう」

これを忘れないで、続けて共に出来る生活を磨いていきたいです。
…また長くなってしまいました(^_^;)ブログももっと力を抜いて書こうと思います(´・ω・`)

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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