こんばんは、satoです。
摂理の御言葉は教会に来ると毎日のように、というか実際毎日聞きます。
そうなると、時たま「御言葉をスルー」といいますか、「御言葉が耳に痛い」といいますか…とにかく、そういうこともあります。
こういうことも分かっていて、
自分の聞きたいところだけを聞かずに、すべての御言葉を受け入れなさい。
とおっしゃっています。さすが神様、私達の心の流れも予測済みですね(´・ω・`)
よくあるのが、自分が聞いてて都合が悪い御言葉は心に受け入れないという話。
自分が治さないといけないところが出てきてもスルーしてしまう、ということです。
ところが、私の場合、少なくとも聞いているうちはこういうことはあまりありません。どちらかと言えば良心に刺さりすぎて、落ち込んでしまう方が多いです。
良心には逆らえないんですよね…私…。
あぁ、神様は落ち込んでほしいのではなく、「お前はダメだ!」と言いたいのでもなく、ただ「治してほしい」とおっしゃっているだけなのに…。
治したらもっと良くなるし、自分にとっても良いからそのことを話すのに…。
私も認識を変えて、「感謝します☆治したいです!」って受け入れたいです。
でも、私が御言葉とぶつかるのはこれだけじゃないんです。
私は事実と異なる御言葉を受け入れるのが苦手なんです。
どういうことか、と言いますと…。
たとえば、私は昔から聖書をあまり信じていませんでしたし、もちろん待ってもいませんでした。
摂理の御言葉を聞いていましたが、当時は「いや、それは起こらへんやろ…」とスルーしてました。
結構後に正しく学んでからはその観は変わりましたが。
さて、こういうわけで
あんなに待った神様の歴史がやってきた!その価値を悟りなさい!
という感じの御言葉が摂理でよく出るのですが、これに対して
いや…感じられない…。私は待ってなかったのだけど…。
という感じでぶつかってしまうことがあるのです。要するに、事実というのは「自分の過去の考え、事実」で、私はこれを基に判断をすることがしばしばなのです。
特に、御言葉を聞いて「その通りに心が反応しない」ときに、「私は総反応できないのだけど…」と考えてグルグルスパイラルに陥るのです。そこにさらに過去「御言葉通りでない事実」があったとするとさらにぶつかります。
いや、ちょっと待った!(一年ぶり)
御言葉を聞いても反応できないのは、御言葉が間違っているからでもないし、自分がダメなのでもない!
ただ、「御言葉がまだよくわかっていない」から、認識が変化しきっていないからなのだ!
そう、御言葉通り「待っていなかったとしても」価値を感じられないことはありません。
だって、待ってもいなかったのに、最高の歴史に出会えたのだからこれはいわゆる「棚から牡丹餅」じゃないですか!?
そう考えればいいのです。
まだ分かっていないのだから、神様にもっと分かるように願い求めて学べば良いのです。
鄭明析先生だって、何回も祈って、何回も実践してようやく悟った御言葉なのですから、一回で理解できるというのは難しいでしょう。
だから、焦ることなく、続けて学んでいきましょう。
…しかし、私の厄介な癖は一度聞いたら「理解した」と錯覚してしまうことなんですよね。
一度「わかった」と思ってしまうと、そこから学ぶのは結構難しいのです。この癖、早く治したいです(´・ω・`)
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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