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聖書にある「間違い」の定義と、その意図について

聖書にある「間違い」の定義と、その意図について

こんばんは、satoです。

聖書の人物が神様の前に犯した「間違い」、これを探すために記事を書いているのですが…。
やりながら、色々難しいなと感じました。というのも、間違いなのか正直微妙なラインがあるからです。

前回、

エジプトにはいろうとして、そこに近づいたとき、彼は妻サライに言った、「わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。それでエジプトびとがあなたを見る時、これは彼の妻であると言ってわたしを殺し、あなたを生かしておくでしょう。どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなたによって助かるでしょう」。-創世記12章11-13節

を挙げて、アブラハムはサラを「妹」として偽って命を守ろうとした、という話をしました。それで、間違ってパロの妻にされそうになって、エジプトに疫病が起こった、という風に大きなことになるのですが…。実は、これが本当に間違いだったのかは明確じゃないのです。実際、

また彼女はほんとうにわたしの妹なのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではありません。そして、わたしの妻になったのです。-創世記20章12節

と書いてあるように、サラが「妹」であることは本当のようだったりします。また、命を守るために、という主張もあながち間違いと言い切ることはできません。何より、この行動に関する神様の言及が書かれておらず、御言葉でもこの話が出ていません。なので、ここでの行動が「神様の感動を受けたもの」である可能性もあるし、「自分の考えで行なったもの」である可能性もあるのです。

というかですね…。
聖書の人物の間違いを探すのは何も正確に間違いを犯した事例を知るためにあるわけじゃないのです。

なぜするのかと言うのですか?そのように「自分も間違いを犯すということを悟って、直しなさい」ということです。-鄭明析先生の主日礼拝の御言葉「間違いは死まで招く」より

すべての出来事を通して自分がこのように間違いを犯すのだ、ということを悟って直すためにあるのです。だから、いくら多くの事例を並べたところでこれができていないと意味が無いのです…(^_^;)この辺りは本当に反省しないといけないと思いました。

さて、「間違い」とはどういうことなのか?
ここでは神様の御言葉に反して行なったことを間違いとすると考えます。たとえ、現代の感覚からすれば「間違い」だと思われても、その時の時代性を考慮したうえで「間違いとはいえない」ことだってたくさんあると思います。私は聖書の人物を裁く人ではありません。あくまで、間違いかどうかを判断するのは「神様」です。

その上で、

間違いなくちゃんとやること。必要のないことはしないこと。順序どおりにすることです。これが人生も仕事も信仰も「成功する秘法」です。-鄭明析先生の主日礼拝の御言葉「間違いは死まで招く」より

ここから、間違ってしたこと、必要なかったことをしたこと、順序どおりにしなかったことに着目して、一つ一つ改めて見ていきたいと思います。

 

…余談ですが、今日はかな~り判断ミスをしてしまい、結果一日がうまくいきませんでした(´д`)もう少しでうまく行きそうだったのですが…。反省します…。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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