satoの数学小説シリーズ「真理の森の数学セミナー」絶賛更新中!

ぶっちゃけ論:摂理人satoが30個論「ペテロと魚」に出てくる「銀貨をくわえた魚」について考察してみた。

ぶっちゃけ論:摂理人satoが30個論「ペテロと魚」に出てくる「銀貨をくわえた魚」について考察してみた。

こんにちは、satoです。
摂理のBible Studyで割りと最初の方に聞く「ペテロと魚」。これについて、ずっと抱えていた疑問を話してみたいと思います。
24:マタイによる福音書/ 17章 24節
彼らがカペナウムにきたとき、宮の納入 金を集める人たちがペテロのところにき て言った、「あなたがたの先生は宮の納 入金を納めないのか」。
25:マタイによる福音書/ 17章 25節
ペテロは「納めておられます」と言っ た。そして彼が家にはいると、イエスか ら先に話しかけて言われた、「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。
26:マタイによる福音書/ 17章 26節
ペテロが「ほかの人たちからです」と答 えると、イエスは言われた、「それでは、 子は納めなくてもよいわけである。
27:マタイによる福音書/ 17章 27節
しかし、彼らをつまずかせないために、 海に行って、つり針をたれなさい。そし て最初につれた魚をとって、その口をあ けると、銀貨一枚が見つかるであろう。 それをとり出して、わたしとあなたのた めに納めなさい」。
…ぶっちゃけ。
銀貨をくわえた魚が釣れるくらいは、現実でも起こるだろうと思うんですよね。
そりゃ、「地球が七日でできた」とか「全世界に洪水が」とか、あるいは「七つのパンから12籠のパンくずが…」とかはさすがに科学的に矛盾しているし、起こらないと思うんです。
でも、銀貨をくわえた魚はいてもおかしくないと思うんです。ゴミを口にくわえた魚もいるでしょうし…。
そういうわけで、検証してみました。頭の中で。
既成だと「イエス様がどこに、どのタイミングでどの魚がいるのか、すべてご存じだ」というわけですが。これもまぁありだな。神様は万物を「人間が存在するために」管理なさるわけですから。
ただ、それだと…どうも「嘘くさい」気が…。
仮にたまたまいたとしても、それをペテロが釣り上げるなんてのもよくよく考えるとすごい話だ。だって、「銀貨をくわえた魚」はいたとしても、湖の中の魚たちの中でも一匹くらい。湖の魚が10匹や100匹くらいしかいないはずがない。きっと多くの魚がいたはずだ。その中から「銀貨をくわえた魚」を狙って釣るなんて…できるのか?
元漁師ペテロの釣り技術は申し分ない。それでも、多くの魚がいる中で釣り上げた一匹が「銀貨をくわえていた」というのは奇跡的、「都合よすぎ」な気も…。
そうやって色々と考えているうちに、私はあることに気づきました。
そもそも「銀貨をくわえている」魚が、餌を口にくわえるんだろうか?と。
いや、魚だってご飯を食べないと死んでしまいますからね。そりゃ食べるときもあるでしょう。でも、餌を食べるときに銀貨をくわえたままにするでしょうか…?
私たちを考えてみましょう。
今飴とかガムを口に含んでいるとしましょう。その時に「ご飯できたよ!」と言われ、美味しいご飯が自分の目の前に。その時に、私たちは…口に含んでいるものをどうしますか?
きっと口から出して、ご飯を食べるか、飴なら溶けるまで待つでしょう…。
まして、魚にとって銀貨はまちがいなく「異物」です。だから、餌を目の前にしたなら…彼らは銀貨を「口から吐き出す」でしょう。そのままにしてたら、間違って飲み込んでしまうかもしれないから。
というわけで、私の中での結論は「銀貨をくわえた魚はいるだろうけれど、そいつが餌を食べた時点で銀貨は口から吐き出す可能性が高い。よってそんな魚を釣ることは限りなく不可能に近い。」となりました。イエス様がどんなに魚の居場所を知っていても、ペテロがそいつを釣り上げることができたとしても、「釣った時点で口から銀貨を吐き出す」のはどうしようもないですよね…。それは「神様の法則」ですから。
…以上の話は摂理で話される30個論には全く出てこない、個人的な考察であることを付記しておきます。
改めて、鄭明析先生の御言葉と科学が矛盾しない、というか「科学が証する」ことに気づかせてくださり、感謝します。


8/16追記
この話を書いた後、よくよく考えたら「えらに釣り針が引っかかる」とか「銀貨を魚が飲み込む」って可能性もあることに気が付きました。後者は聖句の描写からすると違うと思いますが、前者は否定できません。実際「えらにかかって釣れる」ことはありますから。
まぁ…ここまで散々考察しといで何ですが、実を言うと「銀貨をくわえた魚が釣れる」こと自体はいくらでも起こせるんですよね。だって、神様は全知全能ですから。
ただ、「ペテロと魚」のポイントの一つはたとえ「銀貨をくわえた魚が釣れた」としてもはたしてそれが私たちと関係あるの?って話です。
実際に「銀貨をくわえた魚が釣れた」として、それが自分たちとどう関わりがあるのか?そこが分からないと結局聖書は自分と遠いものになるのです。
この辺りを鄭明析先生は詳しく教えてくださいました。その内容は…摂理に来て聞いてみてください(笑)

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

聖書&御言葉カテゴリの最新記事