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たとえ目には見えずとも。~愚痴らずに祈って起きた御働きのその後~

たとえ目には見えずとも。~愚痴らずに祈って起きた御働きのその後~

おはようございます、satoです。

昨日までで、私が仕事をしている中で起きた極的困難に対して神様が働きかけたことを書きました。

振り返ると、

子供たちが自分の言うことをあまり聞かず、授業がうまく進まなくなった。このことを通して、神様が世界を導く心情を悟ったけど、どうもスッキリしない。
神様に愚痴り気味にお祈りした時に、自責の念を持つ考えを変えてくださり、神様が「私に任せなさい」と熱い感動で答えてくださった。
(愚痴ラーから祈ラーになって、来た答え)

次の日の授業で先輩と連携を取って、授業を進めたが先輩がいなくなると途端に態度が変わる。
それをなんとかしようとあくせくしたところ、なんとトップの方が来られて、一気に静かになった。
(愚痴らずに祈って起きた極的な御働き1/3)

その様子を話しながら、別の先生を通して(神様の)熱い思いを聞き、とても感動を受ける。
ちょっとプレッシャーになりつつ授業を進め、そこで知恵を受ける。
(愚痴らずに祈って起きた極的な御働き2/3)

その知恵を使ってみたところ、最後の授業では静かに聞いてくれるようになった。
(愚痴らずに祈って起きた極的な御働き3/3)

という流れでした。このことは本当に感謝だったのですが、昨日の記事に書いたように、実はこのあとずっと心がモヤモヤしていました。

心に残ったモヤモヤ

最後に書いたように、最後の授業後に本来担当していた先生が復帰なさることが決まり、これまで教えていた子供たちとは授業をすることがなくなりました。
(この予定を聞いていたので、「最後は何が何でも」という踏ん切りがついて色々できたところもあります)
私としては、ようやく「対話する」という改善点を見つけ出してやってみようとしたところだったので、非常にモヤモヤしていたのです。
特に、「子供たちとの距離感」が解決できなかったことがもどかしかったのです。

実際、一度「対話する」ことが大事だ、と気づいたエピソードもありました。
ある授業後、トップの方と話をして、子供たちを指導している先生と対話できるようにしてくださいました。
それで、特に気になる子たちにどのように対処したら良いのかを教えてくださいました。
私が一番引っかかっていたのは「子供たちに対してどのように接したら良いのか」、もっというと「子供たちについてよく知らない」ことなので、それが解決できる、と思って本当に感謝でした。

しかし、その後、なかなか先生と対話することができませんでした。
それは先生方が忙しかったのと私自身が塾のバイトをしていたり授業準備をしていたりで話すことができなかった、ということもありますが、もっとも大きかったのは「先輩に対する引け目」でした。
端的にいうと「問題を解決するためにだけ話すのは悪い気がする」という感情、そして「距離が遠い」ということでした。
先輩方はどの方もしっかりとしているし、とても話しやすい雰囲気なのですが、自分自身が(能力的な面でなく)「そもそもちゃんとするのが好きでない、堅苦しいことより面白くしたい」性格なため、その部分で引っかかって話しかけることができませんでした。
どうしても「自分がしっかりしないといけない」と思うと、うまくできなくなるパターンです。

(対照的に、塾や別の子供たちへの授業ではある程度「面白くしていい(むしろ面白い方がいい)」とこういう面白いキャラとして受け入れられたため、割と距離感を縮めることができました。お陰で大分やりやすかったです)

神様の基準と私の基準は異なる

私としては「子供たちとの距離感が縮まる」ことを望んでいました。
もしかしたら、今後そういう機会が訪れるかもしれませんが、端的に言えば、私は「失敗してしまった」と思っていたのです。
せっかく神様があれだけ働きかけてくださったのに、先輩たちも協力してくださったのに、「失敗してしまった」ことに落胆をしていたのです。

しかし、今日聞いた御言葉にこのようなものがありました。

天が見る時、最高の実践はすなわち「御言葉の実践」だ。

人々は誤解する場合が多い。
大きなことをした時、これ見よがしに成功した時、 他の人が認めてくれる実践をした時、 それを実践したと話す。

そうではない。天は、目に見えて大きく見えることだけを「実践した」とは言わない。
小さくても御言葉を実践しようとしたあなたのもがきを褒めて、 それを「実践した」と表現する。

人々が認める実践だけが実践なのではなく、 神様が認める実践が本当の実践だ。

-摂理の御言葉「天を正しく見ることで愛の力を受けなさい 」より

 

劇的に授業が良くなって、子供たちと話ができて、そのような結果を残せたから成功、そうでなければ失敗…というのは神様の基準ではありませんでした。
たとえ目には見える結果がなくとも、むしろ見える結果は失敗だったようでも、「神様の御心を成そう、御言葉を実践し残そう」とする、そのもがきを神様は「成功した」と認め褒めてくださるのです。

思えば、神様は私のことを褒めてくださる感じはしていたのですが、自分が色々足りなさを感じて落ち込んでいたようでした。
本当に、神様と私の考えは異なります。そして、神様の考えを教えてくださる御言葉が本当にありがたいです。

と、ここまで今日記事を書いていたのですが、その後水曜礼拝で次の御言葉が出ました。

神様と聖霊様は愛する人が望むことでも、状況を変えてだめになさる時がある。
もっとよくならせるためだ。もっとよいものを与えるためだ。
祈れば、聖霊が感動をくださり、悟らせてくださる。

-鄭明析先生の水曜礼拝の御言葉「やる時にやりなさい。悟る時に悟りなさい。思い浮かんだ時にやりなさい。」より

本当に衝撃的でした。この締めくくりの記事を書いているまさにその時、自分の中でまだ残っている「自分の足りなさで失敗した」という感じに対して、はっきりと答えをくださいました。
全ては私にもっと良いものを与えるためだと答えてくださいました。

-神様、本当に感謝します。あなたは私にいつも共にしてくださり、「もっと良いものを与える」と教えてくださいました。
今、勇気を出して祈ります。
これからも、私と共にしてくださり、良いものをくださることを願います。私があなたの与える良いものを受け取ることが出来るように願います。

そして、この証を通して、読んだ人に神様の考えが伝わり、良いものを受け取ることが出来るように願います。

全てのことに感謝して、愛する主の御名でお祈りします。-

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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