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流行語大賞から感じた「言葉の力」その3

流行語大賞から感じた「言葉の力」その3

こんばんは、satoです。

前回に引き続き、流行語大賞から「言葉の力」がどれほど大きいのかを感じた、という話をします。
…神ってる、アモーレだけで言葉の話がたくさん出てびっくりしてます(笑)

ポケモンGOとかPPAPは、かなり流行りましたよね。
これは身近に感じられます。私はポケモンGOはしていないのですが、周りには今でもしている人がたくさんいます(笑)
一時期のブームは落ち着いた雰囲気ですが、「バーチャルと現実」が連動しているという革新的な技術は社会現象を引き起こしました。
それと同時に、ポケモンGOは問題提起もしました。
たとえば、ポケスポットになったことで観光地に人が増えました。
このことを「復興のチャンス」と捉えるところもあれば、「この地の本来の意義を失う」としてポケモンGOをすることを禁じたところ、ポケスポットから外すよう申請したところもありました。
「目的」によって、ポケモンGOを容認するところ、しないところが変わってくるのです。
また、ポケモンGOをしながらの事故や事件もたくさん起きました。
私としては技術や時代は新しくなったのですが、まだそれを使う人が追いつけていないという印象を受けました。
ルール整備もまだされていなくて、それを使う人もまだ分別できていない、という感じです。
何より、ポケモンGOをするために多くの人が「スマホを見ながら」集まる、という光景に違和感を感じた人も多かったと思います。
これを「時代が変わった」と捉えるのか、それとも「大事なものを失っているのでは?」と考えるか、それは人次第。

PPAPは本当にいきなりでしたね…(;’∀’)
ギネス記録も取りましたしね。

でも、これらの言葉はどちらかと言えば「流行った現象」を表すもので、言葉そのものがすごかった、というわけではないです。
その点で大きかったのは…「保育園落ちた」ですかね。
本当はこの後にも言葉が続くのですが、個人的にはそこに思うところがあってこのシリーズを書き始めたのです。

「保育園落ちた」の背景と経緯

この言葉は「保育園に入れなかった」一人の親がブログを通して放ったことが始まりです。
そのブログには、様々な言葉を通して「保育園に入れなかったことの辛さと、どうしようもなさ」が滲み出ていました。
この問題は「待機児童」という問題と直結しています。
待機児童というのは「親が働くために保育園に預けたいのだけど保育園が満員で預けられない」子供がいる、という問題です。
これに関しては保育士経験のあるRIOさんが次の記事で詳しく書かれているので、ご参照ください。

摂理保育士より:保育園の待機児童問題-摂理の猫カフェ

「保育園落ちた」の話に戻ると…
保育園の問題を解決しようとしない(ようにみえる)政治に対して強い不満を持ち、過激な言葉を使うほどのフラストレーションがあることが分かります。
この言葉がほかの待機児童を抱える母親にも共感され、少しずつこの言葉と「待機児童に対する働きかけをせよ」という圧力が強まっていきます。
これにより国会でもこの言葉が言及されるようになりました。しかし、言葉の強さも相まってか反発、もしくはそもそも「その言葉を放つ親に問題がある」といった議員もいました。
それでも、待機児童問題という大きな問題を世間に提起した、という意味でこの言葉は大きかったと思います。

しかし…

その一方で、この言葉を「流行語大賞」のトップテンにすることに疑問を持っている人も何人かいます。
こちらの記事で書かれているように、芸能人のつるの剛士さんが「悲しい」と話していたことに対して賛否両論が巻き起こり、最終的には謝罪するまでになりました。
また、この言葉の背景を知らない子供たちが後に続く「○○」という言葉を平気で使うのではないか?という危機感を感じている人もいます。

もちろん、待機児童問題という自分の力ではどうしようもないことに対して発言し、これを世間に広めたという点では「保育園落ちた○○」の言葉がトップテン入りすることは不思議ではありません。
ただ、問題は「○○」という過激な問題を使ったことによって、それが一部の市民を動かした一方で「それを見た人が傷つく」言葉が流行ってしまったことによることです。

「言葉には力がある」という今回の話の意味

摂理では次の御言葉があります。

言葉によって人を殺しもし、生かしもする。だから、言葉は気をつけて使わなければならない。

人が思うよりも、言葉には力があります。
「保育園落ちた○○」にしてもブログを読んで背景を分かった上でならその真意も見えてくるのですが、「保育園落ちた○○」だけを切り取ると恐ろしい言葉になります。
実は私も元のブログを読みました。しかし…私は過激な言葉が並べられていた文章を見ながら、半分以上「心に入れる」ことができませんでした。正直に言います。
その真意が別にあり、背景をある程度知っているとしても、それでもなお「○○」という言葉自体のイメージで心が傷ついてしまうのです。

そういう言葉でないと社会は動かない、という人もいます。
ネットには何を書いてもいい、という人もいます。

しかし、次の聖句があります。

すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。-コリント人への第一の手紙10章23節

何を書いても、それは自由です。しかし、それが益になるとは限りません。
時には自分に不利益になることもあるのです。それは今だけでなく、未来を見たときにもそうなのです。
何故なら「自分の考えは変わる」から。
よく中学生の時に変なことをして、大人になったときに「黒歴史」って言って封印したくなるって話があるじゃないですか?
それと同じように、自分が当時話したことが「自分にとっていい」と思ったことだとしても、あとから振り返ると「しなければよかった…」と考えるということは起こりえます。
むしろ、その方が多いかもしれません。

またしても長くなったので、次に続きます。次はこの話によく似た別のトップテンの言葉について考えながら「神様の考え」について書こうと思います。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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