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世界から猫が消えたなら…と考えてみた。

世界から猫が消えたなら…と考えてみた。

こんばんは、satoです。

昨日道を歩いている時にこんなフレーズが目に入りました。

「世界から猫が消えたなら」

これは5/14に公開される映画の広告のようです。内容はよく知りませんが、この言葉を聞いて、私も考えました。
「世界から猫が消えたら…どうなるんだろう?」

もしも、この世界に「猫」という存在がいなかったら…。
猫、ということは猫の仲間である虎とかチーターとかライオンもいなくなる…そうだとしたら、聖書に出てくる

ユダは、ししの子。
わが子よ、あなたは獲物をもって上って来る。
彼は雄じしのようにうずくまり、
雌じしのように身を伏せる。
だれがこれを起すことができよう。-創世記49章9節

などといった表現が使えなくなるわけです。獅子(ライオン)は「王」の象徴としてよく使われます。その立派なたてがみと勇猛さが王に相応しいわけです。
また、虎やチーターも摂理の御言葉でたくさん出ています。

極で熱く最後まで行なえば、最初に願っていたものより、「もっとよいもの」を得るようになるから、チーターのように極に走り、鷲のように極に飛んで行なうことで、最初願っていたものより「もっとよいもの」を得、<ウサギ>を追いかけているうちに<鹿>に会って捕まえてきて、<鳥>を追いかけているうちに雉(きじ)に会って捕まえてくる御働きが起こることを主の御名によって祝福します!-[鄭明析牧師による主日の御言葉から] 1.自分が願っていたことが駄目になっても失望するな。もっとよいものをくださる。2.行なう人は攻撃し、行なわない人は攻撃される。

このように「速い」象徴として、チーターが使われるわけです。ちなみに、月明洞自然聖殿にはチーターの形象の岩もあります。

それでは、ただ猫だけが世界からいなくなったとしたら、どうなるのでしょうか?

実は口語訳聖書には「猫」が出てきません。唯一あるのは、

このようにヨシヤが宮を整えた後、エジプトの王ネコはユフラテ川のほとりにあるカルケミシで戦うために上ってきたので、ヨシヤはこれを防ごうと出て行った。しかしネコは彼に使者をつかわして言った、「ユダの王よ、われわれはお互に何のあずかるところがありますか。わたしはきょう、あなたを攻めようとして来たのではありません。わたしの敵の家を攻めようとして来たのです。神がわたしに命じて急がせています。わたしと共におられる神に逆らうことをやめなさい。そうしないと、神はあなたを滅ぼされるでしょう」。-歴代史下35章20-21節

エジプトの王の名前として出ているこの箇所くらいです(笑)(ちなみに、新共同訳にある旧約聖書続編の「エレミヤの手紙」には一箇所だけ本当に「猫」が出ているそうです)

そしたら、少なくとも新約までは困らないわなぁ…と考える私。しかし。

少なくとも、猫が存在していなかったら「摂理猫」もいないわけです。
そしたら、摂理ブロガーRIOさんの「摂理の猫カフェ」は存在していません。
そして、猫たちに癒され、萌えるような摂理人も居ないわけです。かくいう私もその一人ですが(笑)

実は今まで「摂理猫」として活躍していた三毛猫ちゃんは昨年末にお亡くなりになりました。現在は「二世」がいるようです。詳しくはリンクを参照ください(/・ω・)/
(初代)摂理猫が亡くなったことについて書かれたこちらの記事を見ると、RIOさんにとって摂理猫がどれほど大切な存在であったかが伝わってきます。摂理猫が、RIOさんの救いに大きく関わっていたのです。

このことを思うと、たった一人の救いのために「猫」という動物が創られたという感動が来ました。RIOさんが摂理猫を通して救いが成された、この出会いのために神様が何億年も前から猫を創造したことを考えると…神様の愛の深さを感じます。
そのように、猫を通して心の回復をし、救いに繋がる人がいるかもしれません。

それは猫だけではありません。
私が摂理に来る前、岡崎律子さんの曲を通して「自分の価値」を失い、生について諦めていたところから救われました。
また、数々のマンガを通して私の心を作り、摂理に来た時に愛に繋がるようになりました。
そのことを思うと、私の場合「マンガ」がなければ、「岡崎律子さんの曲」がなければ、摂理に来ても救われなかったかもしれません。
言うなれば私のためにマンガという世界が創られたと表現できます。

<自分に必要なもの>が「自分にとっての宝」だ。 <自分が願い望んでいたもの>が「自分にとっての宝」だ。 それを得ることが「祝福」だ。   鄭明析牧師の明け方の御言葉より@
<自分に必要なもの>が「自分にとっての宝」だ。
<自分が願い望んでいたもの>が「自分にとっての宝」だ。
それを得ることが「祝福」だ。
鄭明析牧師の明け方の御言葉より@

他の人にとってはなんでもないようなものでも、自分にとっては宝のようなものがあります。

そういうことを考えると、地上にある全てのものは神様と人間一人一人が愛し合うために必要、かつ十分に備えられているわけです。

この全てのものが、自分と神様が愛し合うために創られたものだ。

そのように「認識」を正しくすると、目に見える万物一つ一つを神様がその時を想って創られた姿が浮かびます。
それを見ると、この万物一つ一つが本当に貴重なんだな、と思った一日でした。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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