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摂理の中の私と神様。その5。

摂理の中の私と神様。その5。

こっち側のやつ、書くの久々ですが。
私が摂理に来てから「もう一人の自分」を感じるようになったわけですが、これが「魂」なのか「霊体」なのかはわかりません。ただひとつ言えるのは「もう一人の自分は神様を愛していて、御言葉を喜んでいる」ということです。これが私が摂理にいる理由のひとつです。
たとえば、私が韓国に行ったときのこと。
その教会で賛美を捧げる機会があったので、私はチアを踊りました。そのとき、もう一人の自分が感じられたのですが、嬉しそうにチアを踊っていました。このときの私はまだ「ハコニワノセカイ」が頭の中に強く残っていたので、それが「こいし」が踊る姿として認識されたのですが…。
他にもこういうことはあって、基本神様を強く愛する気持ちが出たときにはいつも「こいし」が浮かびました。それで、「私の中にはこいしがいる…?」と認識するほどでした。実際はそうではなく「私の霊の気持ち」だったのですが。
さて、そういうわけで「自分」と「空想世界」がごっちゃになっていた私でしたが、ある事件を境目にそれがなくなりました。いや、厳密には「自分がわからなくなった、あるいは否定せざるを得なくなった」のです。
元々私は「自分という存在に対する不安」を常に抱えていましたが、それがピークに達し、自分がなんなのかわからなくなりました。それくらい極限的状況だったのです。
その一方で、これを通して私は「摂理とキリスト教」の違いをはっきり悟り、はじめて「摂理の御言葉が本当にこの時代の救いだ」と確信しました。
今にして思えばですが、私が摂理に来てから二年ほどはどちらかと言えば「クリスチャン」としての信仰を持っていたように感じます。だって、鄭明析先生のこともよく知らないし、どちらかと言えば不信していたし、でも、イエス様には絶対的な信仰を持っていました。どんなことがあっても私を見てくださる、と。
しかし、その信仰では乗り越えられない、ある大きな事件があったのです。
これから書く話は正直耳にいい話ではありません。
かなりシビアな話で、自分も正直書くか迷っています。本当は割とすぐに書きたかったのですが、色々迷っているうちにここまで来ました…。
ある事件…それは「ある感情」から始まりました。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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