satoの数学小説シリーズ「真理の森の数学セミナー」絶賛更新中!

どうして摂理にいると「つらく思う」時があるのか?その3

どうして摂理にいると「つらく思う」時があるのか?その3

順番が変わりますが、3番目「自分に罪があるから、足りないところがあるからそれを指摘されるのが怖い」という理由でつらくなるのも、実は自分の考えなのです。
御言葉ではよく自分ができていないところを「できるようにしなさい」と指摘なさいます。実を言うと、このように御言葉が宣布されるのは「できてないから」であって、できているなら言う必要がないのです。では、どうしてこのようにできていないところを話されるのか?
人間だと「自分が嫌だから」とか「見せしめのため」など、自分中心の指摘になりがちです。摂理に来る前、そのような形の指摘を多く受けた人は特に、その経験が思い出されて
「神様は自分が嫌だから指摘するんだ」
と認識してしまいます。
無意識のうちに認識されてしまう、いわゆる鄭明析先生の御言葉の「凝り固まった状態」になってる人も多いです。
しかしながら、神様としてはそんな思いは微塵もないわけで。
なぜそう言い切れるかというと、神様にとっては「御言葉を守れないこと」よりも「愛して創造した」人間である方が遥かに大きく映るからです。もっとも、神様が罪について寛容なわけではありません。罪を犯したら、神様は心をいためられます。しかし、メシアが代わりに悔い改めることで、「愛して創造した」人間であることを思い出す。だから、私たちにはメシアが必要だと言えるのです。
では、どうして話すのかというと「それを治すことでその人がよりよい人生を生きられる」からです。
人間にとって最も楽な道、嬉しい道とは本来「神様の考え通りに生きること」です。
なので、神様の考えである「御言葉」を聞いて行ってこそ楽なのです。それがつらく感じられるのは「神様の考え通りに生きない生に慣れている」からであって、慣れればこっちの方が楽です。
そういう訳で人間にとって嬉しい道に行かせたいから、できてないところを指摘なさるのです。
まぁ、この辺りは認識を常に転換する努力が必要なのですが…。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

日常生活カテゴリの最新記事