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摂理と疑うことと疑心暗鬼。

摂理と疑うことと疑心暗鬼。

おはようございます、satoです。
今日は摂理の兄弟が書いた次の記事
「盲信?いや、基本、疑ってます。」(摂理のア・ラ・カルト)
http://blog1.setsuri.com/a_la_carte/1107#comment-85
から着想したことを書きたいと思います。
私自身、ここが摂理だと知ったのは「摂理や鄭明析先生に対する否定的な記述のあるサイト」を見てからでした。よって、摂理の御言葉を「本当に正しいの?」と疑うところから始まっています。だから、私は「盲信してる人」とは真逆の人間でした(笑)蛇のような人間だと思っています(笑)
表向きにはみんなに合わせて「アーメン!」と言いつつ、内心では
「本当はここ、カルト宗教なのでは?」
「本当に御言葉で言われたことが成されるの?」
「実は私たちを騙しているんではないの?」
と思っていたわけです。(…よくこんな人を摂理にいさせたなぁ、って私は思います(笑))
その疑い・疑問を書くとここには収まりきらないので(笑)別のところに書きたいと思います。
世の中の人でも「疑心暗鬼」な人っていますよね?あれは「すべてのことを疑う」という意味では上と同じです。でも、実は少し違いがあるのです。
疑心暗鬼な人は「自分がそれについて知ろうとはしないでただ「疑ってばかり」で終わる」のに対して、上の疑問を持つ人は「とりあえずやってみて、正しいかどうかを理解・判断しようとするか」というスタンスの違いがあるのです。
疑心暗鬼な人ってすべてのことを疑いますよね。
どんなに人によくされても「いや、これには裏があるのでは?私をこうやってよくさせて、心を許したところで自分の意を成そうとしているのでは?」と思ったり。
どんなにいい記事を見ても「いや、これはあくまで一部分しか見せていない。絶対悪い部分もあるはずなんだ。そこまで見て判断しよう」と思ったり。
これって実は「すべてのことには裏がある。100%良いものなんて存在しない」って信じているのでは?(…と、昔の自分に言いたい(笑))
まずはそういう自分の考えを疑ってみては?つまり、「一度自分がやってみて、そのことを体験し、理解しようとする」のです。
人がなにかに疑いを持つとき、実は「自分が持っている価値観」をベースにしていることがわかります。その価値観と異なるものを受け入れられず、それで疑うのです。
だから、それに対しては「行うこと・理解しようとすること」で確かめてみればいいんです。そうしたら必ず「答え」が来ますから。
私は疑いを持ちながらも摂理についてきて、結局すべての答えをもらいました。もらっていないものはこれからもらえるだろうと確信してます。
どうしてか?
私が何回も祈り、ひたすらその事について考え続けていたから。思考を放棄しなかったから。
とにかく御言葉を受け入れてみて(正確には頭のなかに入っていて)、ついてきてみたし、行ってみたから。
行ってみるとわかるのですが、実は「御言葉通り行うこと」はただ信じるだけではできません。
キリスト教でも「貧しい人に施しなさい」と教えますが、果たして何人がそれを実践しているでしょうか?(…私もあまり実践できていないけど。まずは私から実践します。)
結局、その言葉を「100%理解し、自分のものにして」こそ行うことができます。
どうしてその言葉を話したのか?
その言葉を実践するためには何が必要なのか?
やってみたけどうまくいかないなら、それは何が原因なのか?
思考放棄する人はなにも行えません。
そういう意味では「疑う人」の方がむしろ有利と言えるかもしれません。その姿勢には「理解しよう」という心があるのですから。


今日はじめてリンクを貼ることをしてみたのですが。
スマホからだとやりにくい…!!これだけで20分取られましたよ…。
このように「知らないとできない」ってことですよね(笑)

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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