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リオオリンピック2016:勝ち負けではない、大切なもの

リオオリンピック2016:勝ち負けではない、大切なもの

こんばんは、satoです。

ここ最近オリンピックを観戦しながら、結果に一喜一憂する私。
ところが、私の心の中に何か「違和感」がありました。なんか、ずれている感じ…。
特に、昨日の記事で卓球の結果について書いたとき、それが強かったのです。
福原愛選手が4位だったことを「残念」と表現したり、水谷隼選手が銅メダルを取ったことに対して賞賛したりしたのですが、このあたりに違和感を感じていました。

もし、水谷選手が3位決定戦で敗退したとしたら、そのとき私は「残念」と表現したのだと思うのだけど、本当にそれはふさわしいことなのか?

もちろん、昨日も書いた通り「ラバーの反発力を高める違反行為をしないで、クリーンな卓球を貫いてきた」水谷選手が銅メダルを取ったことというのは勝敗を超えて、とても意義深いものがあります。
だけど、それは「銅メダル」という結果とは別の問題のように思います。

似たような話に、こんなものが。

柔道「銅でご免なさい」の空気感 五輪選手が可哀想?-livedoor NEWS

今回のオリンピックで柔道は14階級中12階級でメダルを取りましたが、その中で銅メダルを取った選手が「申し訳ない」と発言していたことに対して、ネットで論議になっていました。
確かに、銅メダルって本当はすごいこと(世界で3番目なんですから)なはずなのに、どうして喜ばないのか?
もちろん、本人たちは「金メダルを取る」ために頑張ってきたわけなのですから、そうできなかったことを悔しく思う気持ちも理解できます。しかし、それにしても「謝罪」するのはちょっと違う気がする…。

卓球でも福原選手や石川佳純選手が負けたときに泣きながら「申し訳ない」と話しているのは心が痛かったです。
もちろんメダルを取りたかった、勝ちたかった思い、悔しさは理解できますが、なんというかこう…。

そんなモヤモヤを抱えていたのですが、その答えがちょうど今日の主日礼拝で伝えられた御言葉に出ていました。

世の中では「最高の人」を選ぶ時、100人でも1000人でも互いに競争し、競い、退かせます。
そのようにして上がって来た人を一位、二位、三位に決めます。
だから互いにいつも「競争」であり、「競い」です。

この御言葉に、すべての問題が集約されている気がします。
上の問題も、ロシアのドーピング問題も、ブーイングも、フーリガンも、卓球の補助剤問題も…。

そう、勝つとか負けるとか…それはスポーツの本質でなく、スポーツは平和を成すために、そして神様に栄光を帰すためにあるのです。

だから「相手がうまかった」って、賞賛してもいいような気もします。
ちょうど体操個人総合で内村航平選手を尊敬し称えたベルニャエフ選手のように…。

ちなみに、ベルニャエフ選手は会見の時に「自分が最高の演技をしたならば、あとは神様にゆだねる」という発言をしていた、と聞きました。おそらく日本のメディアはこの部分を重視しなかったのか、表には出ていなかったのですが。
やはり、神様を信じる人ならではの発言ですね。

神様が審判する。
神様に委ねる。
そういう視点のない限り、勝利したときは「自分の力」、もしくは運、周りのサポートとなり、負けたときは「自分の不足」を嘆いたり、相手のせいにしたりするのです。
でも、本質は「自分の努力の上に神様が働く」ものなんですよね。

例えば、錦織圭の準々決勝、1-1のタイブレーク時。
ガエルモンフィスがマッチポイントのところでサービスをしました。直前のポイントでサービスエースも決められる彼ですが、ここでダブルフォルトをしてデュースに持ち込みました。
そこを錦織選手が決めたのです。
実はこのとき、モンフィスは錦織選手のリターンを警戒し、二回とも厳しいコースを狙っていたのです。それゆえにダブルフォルトになった、というわけ。
一見すると単なる運に見えるダブルフォルトも、錦織選手の努力の成果である「リターン」によって引き込んだものなんです。

それでは、私たちはなにに勝利するのでしょう?

自分のすべきことをしながら、自分の前に置かれた「生の状況と戦って勝つこと」です。

これを言い換えると「自分がどんな状況でもすべきことをする」ことが勝利だ、といえます。
スポーツ選手が練習を重ねるように、私たちも日々練習しながら自分に勝利していきたいです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。

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