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摂理は「自由」なところです。

おはようございます、satoです。

最近韓国の摂理がどんなことをしているのかをよく見てます。
韓国摂理は、本当に自由です。御言葉をラップにしたり、チアしたり、ヒップホップダンスしてたり、舞踊していたり、本当に自由です。
正直楽しそうです。見ていて楽しいです。

しかし、実際にやってみようとするとわかりますが、けっこう大変です。
私はチアこそコピーできますが、他の踊りはなかなかできませんし、「誰もやったことのない、枠がない」ものだと本当に変な感じになります。
そういう意味で「新しいことを開拓する」人は本当にすごいです。

摂理は、本当に「自由」です。
神様の中で、本当に自由に、個性に応じて表現できます。

ただ、昨日の話ではありませんが、この「自由」には大きな「リスク」が伴います。
誰でも初めて行う分野は周りから褒められるものとは限りません。むしろ反発を受けることすらあります。
世の中のあらゆる分野で、新たなことを行う人は得てしてそうなのですが、摂理でも(残念ながら)このようなことが起こります。

自由なことをするには、自己責任が伴います。
無論、摂理に来て御言葉通りに行うならば神様が責任を取ってくださる部分がありますが、自分が受けた感動とかは、ちゃんと神様に確認しながら、時には「一人」で行わないといけないことがあります。
そういう「本当に神様の構想なのかを確かめる」ことや「信仰を守ること」というのは自分の責任なのです。

摂理の御言葉の中で「予定論」というものがあります。
この講義の核心は神様が果たすべき責任分担と人間が果たすべき責任分担があり、神様は100%責任分担を果たしているので、人間が100%行うなら必ず御心が成されるということです。
このことを考えると、韓国や台湾の様々な分野での発展は「自分が果たすべき責任分担を諦めずに成し遂げる」ことで成されたのだとわかります。

そういう意味で、私はまだまだ「自由」にできていないなと感じます。
日本人にありがちな「人がしたことをやろう」「周りがしていることをしていれば大丈夫」という体質が、自分もなかなかに取れません。

最近、なかなか面白いことができていないで、少し倦怠感を感じていました。
もっと、自分からも「やってみたいこと」を発信していこうと思います。一つ提案したものがありましたが、それももう少し自分から進めてみようと思います。

「自由」なところ、摂理。
もっと自由を享受するために、まずは信仰の基盤を整えながら楽しくやっていきたいです\(^o^)/

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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