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アンチカルト論「摂理で強制は本当にないのか?」

おはようございます、satoです。

一つシリーズ物として「摂理がカルトだ」と言われている主張、また摂理人がカルトでないという主張に対して、自分自身が感じたことを「アンチテーゼ」として問題提起して色々考察する記事を書いていきたいと思います。
題してアンチカルト論。アンチとは「アンチテーゼ」の意味です。

さて、本日の主題。
最近摂理宗教の女性ブログにてこんな記事が書かれていました。
摂理カルト論に言及する。
このブログには3者の視点から摂理がカルトであるかどうかについて語られています。これはとても良くまとまっているのですが、いくつか気になる点がありました。

その中の一つが「摂理には強制的なことはない、洗脳やマインドコントロールはない」という話。
私自身もこの「摂理には強制がない」という話は書きました。
しかし、その一方で実は私自身の体感として、摂理にいて「強制されている」と感じることが時々あるのです。これは一体どういうことでしょうか?
今日はこのことについて様々な視点から深く分析をしたいと思います。

摂理で強制的に何かをさせられることはあるのか?-摂理の目的

まず、摂理側としては強制的に何かをさせる、ということは基本ありません。
この話を「摂理が何を目的としているのか」について言及して考察します。

摂理の目的は一言で言うと「神様を心から愛すること」です。
その根拠となるのが次の聖句です。

イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。
-マタイによる福音書22章37-38節

神様を愛する、と言ってもいきなり「あなたは神様を愛しなさい!」って言われても愛せるものでしょうか?
強制的に愛するなんてできないですよね。
そもそも日本人は神様を知らない人が多いです。何も知らない人をいきなり愛せ、って言われても無理でしょう。むしろ、怖くて逃げ出してしまいます。
このことから分かるように、愛するというプロセスにおいて「強制」というのは何の効果もない、どころかむしろ逆効果であるということが分かります。

また、仮に強制的に神様を愛したとしても、神様はそれを喜ばれません。
この聖句にもあるように、「神様は真心を見る」からです。このことは鄭明析先生も御言葉で繰り返しおっしゃいます。

しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。-サムエル記上16章7節

それではどうやって私たち(特に神様のことを知らなかった日本人)が自ら神様を愛するようにさせるのかといいますと。
鄭明析先生自身神様のことを知り、実際に愛することで経験したこと、悟ったことを御言葉として私たちに教えてくださるのです。
その御言葉は実体験に基づいた「真実な言葉」であるので、聞いてみると本当に「自分が好きで神様を愛したくなる」ようになります。

実際、私自身も御言葉を聞いて神様が「新郎新婦のような近い」関係であることを知り、段々と自分から愛したくなりました。
そして、実際に御言葉通りに行うと本当に神様を近く感じるようになりました。

摂理で「自分自らが行なった」体験-サークルより礼拝になるまで

私自身も強制的にさせられたのでなく自主的に行なったことはいくつかあります。
ここではその一つについてお話しします。先に紹介した記事内のまっちゃんさんの体験とよく似た話ですが、参考まで。

摂理では主日の他に水曜にも礼拝があります。なので、基本的には皆水曜にも教会に来て礼拝を捧げています。
しかし、日本の会社の多くが水曜にも仕事があって忙しいです。そういうときに摂理で「あなたは会社を休んで行きなさい」と言われることはありません。

私が摂理の礼拝に出始めて間もない頃、大学のあるサークルにも属していてそこの例会が水曜にやっていました。
そういうわけで、最初私はサークルがあるから水曜礼拝には行きませんでした。
(サークルが楽しい、ということもありましたが、それよりは「先に約束したことは必ず守らなければならない」という思考体系のゆえ)

しかし、当時教会の先輩が「例会が終わったあとで良いから教会に来てみたら」と勧められ、それならと思って例会が終わったあと教会に行きました。
例会が終わったあとなら約束がないので、心理的抵抗がなく先に帰ることができたのです。

大抵私が教会に来た時には礼拝が終わっていましたが、そこで私が何か怒られるということはなく、人に何か言われることもなく迎えてくれました。
そこで、私は神様にお祈りし、教えてくれた先輩が一緒にお祈りをしてくれました。

そうしているうちに段々と水曜礼拝に行きたくなり、例会の開始時間と少しずれていることを利用して、サークルの例会に少し行ってから水曜礼拝に間に合うように出る、ということをするようになりました。と言っても、サークルの雰囲気的に出れない時もありましたし、時には公演直前で練習する必要があって出れないこともありました。
それでも何か怒られるということはまったくなく、むしろよく迎えてくれました。

こうしてサークルに行ってから礼拝に行くという生活をしていましたが、礼拝の雰囲気とサークルの雰囲気があまりに違いすぎて、礼拝に来た時にうまく入ることができませんでした。そのことがだんだんと嫌に感じられ、「もっと礼拝に集中したいな」と考えるようになりました。
それで、段々とサークルに行く時間が減っていき、休会するに至ったのでした。

今では何も葛藤することなく水曜礼拝に出ています。バイトも、研究室も、この水曜礼拝を守れることを前提に予定を組んでいます。それくらい水曜礼拝の優先順位が高くなったのでした。
しかし、これは人に何かを言われてそうした、というよりは少しずつ礼拝に時間を投資するようになって段々とその良さを感じて自分自ら選んでいったというところが大きいです。

このような経験は摂理に来てからいくつもあります。つまり、誰かから切れ、と言われるのではなく御言葉を聞いて「切ろう」と思ったわけです。

他の例ですと、漫画の立ち読みですかね。以前は気になる作品があれば夜でも外に飛び出し、掲載されている雑誌がある本屋を探して札幌の遠くまで自転車で移動するくらい熱心だったのですが…^^;
お祈りをしている時に「見た漫画のシーン」が浮かび集中できず、「もう嫌や!」って切ってしまった、というのがきっかけで今では漫画やライトノベルを読むことはなくなりました。

「良心の痛み」と強制-献金に関する葛藤

その一方で私自身は御言葉を聞いて自分自身心からしたいと思わないけど「守らないと」と思ってしていたことは幾つかあります。
たとえば、私の場合は献金でした。

各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。 -コリント人への第二の手紙9章7節

この聖句にあるように、本来献金は皆の真心でするものです。
しかし、私は摂理に来た当初から「献金を欠かしてはいけない」「献金を守らないと何かいや」という感じで献金を捧げていました。

そもそも私は実家にいたときから「お金がないから使えない」と言われ続けていたので、大学に来てからも「お金はなるべく使わない」という思考で生きていました。
あまり大声で言えないですが…アニメとかはすべてYoutubeなど無料動画サイトを利用し、音楽もダウンロードサイトで無料で取りました。
オタク生活も本当にお金を掛けずにしていたのです。(グッズを買ったら負けかなと、なんとなく感じていたので…^^;)
唯一お金を使ったのは漫画やライトノベルを買うことくらいで、それもブックオフで買うことが多かったです。どうしてもほしい時はアニメイトとか使っていましたが…^^;

そんな私でしたから、献金が嫌とか、そういうこと以前に「お金を使うこと」にはシビアな感覚を持っていました。貧乏人根性というものですかね…。
(もっとも、今となってはかなりお金を使うようになり…むしろもっとシビアになったほうが良いなと考えるくらいです…^^;)

そんな私で、しかも摂理に来て間もなく「摂理がカルトだ」と書かれているサイトを見たので、あまりお金を出すことにいいイメージはありませんでした。
どうしても「搾取されている」感じが拭えなかったのです。
しかし、それでもなんとなく「しなくてはいけない」という雰囲気を感じてか、献金をすることは続けていました。
摂理の献金は基本真心で金額は多くありません。私も学生なのでそこまで大きくお金を捧げることはありません。だから続けられたところもあるのかもしれません。

その後摂理の教会で献金についての御言葉を聞くようになって、どうして献金を捧げるのか、何を神様が願われているのかを知るようになり、少しずつ献金に対する悪いイメージはなくなりました。

また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。-ルカによる福音書21章2-4節

人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。-マラキ書3章8-10節

このように「神様のものを神様に感謝して捧げる」というのが献金における重要な認識です。この認識がないと…たとえば「このお金は自分のものだ」と考えると献金をすることに抵抗を感じます。
このことを分かってから、少しずつですが私も神様から与えられたお金だとわかって、感謝の形として喜んで捧げられるようになってきました。
もっとも、自分の生活がギリギリな時には負担に感じることもあります…^^;そのあたりは神様にお祈りして決めています。

こういうふうに「心からしたいとは思えないけど、言われたことは守らないと」と思ってしていることは多くありました。
もちろん、時には心からできないからやめようと思うこともありましたが、そういう時には「良心」が痛みました。

よくカルト宗教に対するアンチな立場にいる人が話すのが、この「良心を利用してこの集まりから出られないようにする」という主張です。
確かに、人には良心というものがあります。特に日本人は
「あの人に良くしてもらったから…」とか
「あの人が傷つくかもしれないから…」とか
人を傷つけ、裏切るかもしれないと考えて自分のことを言えないということが本当に多いです。
これを利用して悪いこと、たとえば精神的苦痛・洗脳・マインドコントロールや金銭的被害(マルチ商法とかネズミ講)をしていく団体がある、というのは事実ですね。

強制と日本人的思考

ところで、どうしてこのような「言われたことは守らないと」という心の反応が起こるのでしょうか?

その原因ですが、まず私自身の考えの傾向について書きたいと思います。

私は「しなければならない、してはならない」という考えがとても強いです。これは旧約時代の律法の考え方です。(以下、律法的思考と表現します)
私自身の過去の経験上、神様の愛の御言葉より「してはならない」というルールにとても強く反応し、脳に強く残ってしまいます。
それで本来なら「強制的にすることを望まない」摂理においても「強制的にさせられている」と感じることがあったのでした。

事実、私がスポーツをする時に何か特別なルールが定められると「それを守る」ことにかなり固執します。そのために割と楽しめない…ということもしばしば^^;

私は特にこの傾向が強いですが、これは私に限らず多くの日本人が(意識下/無意識下で)持っている思考体系でもあります。
そもそも、一般に日本人が受けてきた教育というのは「言うとおりにしないと怒られる/罰せられる」というものです。
このような教育を受けていると、どんな話を聞いても…特に何かしらの団体に属していると「上から言われたこと、周りのルールは無条件守らなければならない」という風に認識し、そのように動く傾向にあります。したがって「言われたことは守らないといけない」という心理が潜在的に働きます。

世間でよく言われる「反社会的活動をするカルト宗教」は日本人のこの心理を悪用して強制的に自分の宗教に入会・反社会的活動をさせます
学校で反抗的な行為をしない、いわゆる「真面目な」人ほどこの手法にハマりやすいです。なんせ、「言われたとおりにしないと怒られる」という認識が強いですから。

摂理では「強制的な手法」を取られていないにも関わらず、摂理の御言葉を聞いている人たちが「強制的に感じられる」と感じる場合、私達摂理側に属する人自身が足りなくて「強制させてしまう」ということとは別に、このような大多数の日本人が持つ「言われたとおりにしないと罰せられる」という律法的思考が大きいのではないかと思います。

それとは別にもう一つ「強制されている」と感じる要因として、日本人は特に周りの目を気にする傾向が強いということもあります。
周りがしていることを自分がしていないと「何か不安…」となるのです。また、周りの人のことを考えて自分の思うことを話せない、という人も多いです。
この辺りは日本人の「優しさ」とも言えるのですが、同時に人を中心にする傾向にある、つまり、人本主義に陥りやすいということでもあるのです。

この傾向が強い人だと、周りが異常なことをしていたとしても

「なんか変だけど、周りがやっているから正しいのかな?」

「皆やっているからこれが正しい」

と判断してしまいます。群集心理、というものです。これもまたカルト宗教団体が用いる手段の1つですね。
この心理によって、周りの人が皆ある考えを持っていると自分はそう思っていないけど「その考えが正しいのかな」と合わせることが起こります。
これは強い言葉や暴力でそうなっているわけでないですが、やはり「強制される」と感じるようになります。

派生して、日本人の宗教・霊的なことに対する無知を利用して「このままだと地獄に落ちる!」とか言って不安にさせることころもあります。
その宗教が本当にそうなると信じている場合もありますが、脅迫して強制させることもあると思います。

ちなみに、私はこの「周りの目を気にする」傾向に加えて「周りの影響を非常に受けやすい」という特性があります。
端的にいうと「皆が笑っていると自分も嬉しい」「誰かが気分を害していると自分も不安になる」という現象です。
このために、さらに自分のことが言えなかったりしました。
幸い、今では摂理の御言葉を聞きながら神様の愛を受けることで、自分のことも人に話せるようになりましたが。

摂理で「強制的にする」ことはむしろ損をする-私が「してはいけない」という考えで苦しんだこと

このような日本人の「しなければならない、してはならない」という律法的思考、周りを気にして動く人本主義傾向ですが、実は摂理でこの思考を持っているとむしろ損をするのです。

摂理の御言葉は先程も書いたように「自ら愛する」ことを重視します。それなのに、「周りがしている」という理由だけで信仰生活をしていたら「自分が分かって」やっていないので「ちゃんとできている」実感がわきません。
また、「しなさい」という御言葉を聞いてただやろうとしても、自分の状態、神様の真意を理解せずただやっても上手く行かないし苦しくなります。
御言葉を聞く上で重要なのは今の自分の状態に対する答えとして御言葉が与えられているということです。よって、同じ御言葉を聞いても自分の状況によってすべきことは変わってきます。

そういうわけで、確かに御言葉は「しなければならない」ことなのですが、それをするためには自分に合わせたプロセスを踏む必要があります。変化は漸進的なのです。
にも関わらず、そういったことを無視して「しなければならない、してはならない」と考えて行おうとすると自分の状況とのギャップが激しく、苦しくなるのです。
その結果、自分の心が苦しくなったり、問題がむしろ複雑になるなど自分が損を被る、というようになります。

私もこの「してはならない」という考えで苦しんで、心を病むまでになったことがあります。
具体的には摂理で「持ってはならない」という考えをなくそうとして苦しんでいました。

摂理では男女交際より神様を愛して自分を成長させることを優先しています。
そして、時になって自分をしっかり成長させたら御心の人と結婚、もしくは神様のためにその身を捧げるということをするわけですが、これについて詳細は

摂理の男女交際と結婚、その生活@摂理宗教~男達の船出~

をご参考ください。

さて、この御言葉を聞いた私はあることをきっかけにして

女性を見てはいけない、話してはいけない

と思い込んでしまいました。その心は…

女性と話してしまったら、自分の心が女性に流れる。女性を見たら自分の心が女性に流れる。→女性に心が流れることは罪だ!これはしてはいけない!→だから、女性を見たり話したりしないようにしよう

という流れでした。実はこれ、私が摂理に来てからぶつかった壁の一つでもあるのです。

しかし、皆さん。冷静に考えて摂理にもそれ以外にも女性は普通にいますし、話さなければならない状況は起きるわけで、見ない話さない、なんて不可能なのです。
そして、男性が女性を見たり話したりすると心が嬉しくなったり、何か心に動きがあるのは、実を言うと神様が人間を作った時に備えられたものでもあります。
これは「男女が結婚して子供を産む」という神様の祝福を成すための心です。もし異性が好きでなければ結婚なんてしようと思いませんよね…^^;
(もちろん、結婚しないで神様をひたすら愛して生きるという選択肢もあります)

ところが。
私は女性に心が流れる自分を極度に嫌い、心が瞬間流れるたびに「自分が罪を犯した…」と落胆し、完全に心を閉ざしてしまいました。
人に心を開けば、自分が好きになるかもしれない…と恐れ、心を閉ざしひたすら清くなれるように悔い改めの祈りを捧げていました。
そうしなければ、自分が罪を犯す、と思って。

しかし、実は「女性に心を開いてはいけない」という考えは、むしろ自分を苦しめました。
「してはいけない」「消えてしまえ」とお祈りをしていた心は先程も書いたとおり神様が人間に祝福を与えるために作った「自然な心の流れ」なのです。
これを人間の力で止めると何が起こるでしょうか?

自然の川の流れを強制的に人間が変えた結果大きな洪水が起こるように、流れが淀み人間の心に大きな支障をきたします。
具体的には愛が感じられず、全てのことが苦痛になりました。
女性に流れる心を消すことはできないばかりか、止めているからもっと増幅され、一層自分を苦しめました。
そして、いつしか軽い鬱状態に陥ってしまっていました。

事あるごとに自分の罪悪感から告白をしていましたが、その時は良くなってもだんだんと戻ってしまいました。
そして、この罪が消えない自分に対して自暴自棄に陥り、諦めの感情も出ていました。

幸い、その後ある牧師さんを通して「女性に心が流れないことを考えるより、御言葉を通して神様の愛を満たす方を優先すればいい」と何回か言われました。
その言葉に、しかし、最初は「女性に心が流れる」ことに固執してしまいうまく受け入れることができませんでした。
もし、心を開いてしまってまた女性に心が流れ、罪を犯したらどうしよう…と不安で完全に心を開ききれませんでした。

しかし、段々とお祈りをしながら変化していくうちにこの御言葉を受け入れられるようになり、今では神様を愛する方に考えが変わってこの問題も克服できるようになりました。
今でも心が弱くなった時には女性の方に考えが浮かびますが、そういう時にはお祈りして一層神様のことを考え愛するようになり、心が安定していきました。

結局私が「異性を遠ざけ、神様を愛することに集中する」という御言葉で苦痛を受けていたのは

自分が「異性に触れてはいけない」という律法としてこの御言葉を捉えていたこと

自分の心のことを正しく理解できず、ただ抑えつけるようなことをしていたこと

そして、根本的には「自分自ら」神様を愛することが出来ていなかったこと

によるものでした。

結論

私の主張をまとめると、以下のようになります。

日本人は「してはならない/しなければならない」という思考が強く、また「周りが同じことしていると自分もしようとする」群集心理が働きやすい。
このことを利用して、一部のカルト宗教は「この教理を守らなければ悪いことが起こる」と恐れさせ、ルールを守らせることでその宗教から出られないようにしたり、人を動かそうとする。

これに対して、摂理の目的は「神様を自分から愛すること」にあるので、強制的に何かをさせることはできない。
しかし、日本人の律法的思考と人本主義、御言葉の「しなければならない」という言葉に引っ張られて「強制的に」感じることはある。
この思考を抜け出さないまま摂理にいると苦しくなるので、お祈りして認識を転換していく必要がある。

個人的には、最後の部分は摂理にいなくても問題になると思うのです。
つまり、しなければならない思考や人本主義によって自分の行動を決めると苦しくなるし、自分が何をしたいのかがわからないまま生活するから将来に希望がありません。
そのことが今の日本の中にある「閉塞感」、様々な問題につながっているのではないかなと思っています。

補足:「強制的」と感じても行うことが必要になる時

以上が「摂理で強制があるかどうか」について私が考えたことなのですが、最後に少し視点を変えて「強制的」と感じるのはどういうときかについて書いてみます。
端的に述べると自分の心が向かないのに、やろうとする時が「強制的」と感じやすいです。

たとえば、以前私が書いた物語『時を超えて、叶う願い。』にはAKB48に憧れるGさんという女性が出てきます。
冒頭、彼女はAKB48に入る、ということに考えが集中していたために、

「あ~もう!『メディアに溺れないようにしなさい』って!摂理は『するな』っていうこと多すぎ!ホント息苦しい!
…なんでこんなとk(ry」

と、御言葉を息苦しく感じる、言い換えると「強制されている」と感じたわけです。

ところで、「自分の心が向かない」と話しましたが、どんなに自分が好きなことでも…自分の心が向かない時はあります。
摂理に来ても、はじめは心を熱くしてもあとから冷めてしまうということはよくあります。
たとえば、「神様にどうしてもこの願いを聞いてほしい!」って思ってお祈りを続け始めたのですが、段々と「目的」を忘れてしまいいつの間にかただお祈りの文言だけを述べる…なんてことは私自身よく経験します。
こういう時は強制的に続けてもあまり続かず、むしろ苦しくて心の傷になることもあります。

こんな時は「どうしてお祈りを始めたのか」を考えることが大事です。
また、同じようにするだけではなく色々深く考え祈り、そのことについてもっとはっきりとした答えを得られるように努力することが必要になります。

それとは別に、習慣になっていないことを習慣にする時も「強制する」ことが必要になる段階があります
摂理でいうと、たとえば「明け方に起きてお祈りを捧げる」というのは誰しもがもがくところの一つです。
大体の人が「明け方に起きて活動する」ということを習慣にはしていません。むしろ夜遅くまで起きて、朝はずっと寝ている…なんて人の方が多いですね。
こういう時に摂理の御言葉を聞いて「明け方に起きてお祈りしたい!」と強く思っても、起きることはなかなか難しいです。それまでの体質と大きく異なることをしているからです。

こんな感じで「心はしたいと願っているけど、体がうまく動かない」という時があります。この時は決心して半ば強制的に、何が何でもやる!ということが必要になります。
これを一種の強制と見る人もいますが、厳密には「決心して計画的に体質を治していく」という感じで、強制されることとは異なりますね。むしろ、強制的に無理やりさせられてはできないことです。

私自身もこのような時がありましたが、その中でも一番印象的だったのはブログの毎日更新でした。
私のブログを最初から読んでくれているコアな方はご存知かと思いますが、私は2013年からブログを書くことを始めました。
ところが、最初に更新してちょっと続けてから約2ヶ月放置をしていたのです^^;
それである時御言葉を聞いて、これはまずいと思って決心して「毎日何が何でも更新する!」と決めて実行しました。
この期間は夜遅くなっても更新をし、時間がない時は歩いて移動している時にブログを更新することまでしながら毎日毎日更新を続けていました。

そうしているうちに、いつしか私はブログを書くのが当たり前のようになり、今ではブログ更新しないと何か気持ち悪いというまでになりました。完全にブログ更新が体質になりましたね…。

一つ重要なこととして、自分はブログを更新できなかったときも「ブログを書かなくては…」という考えはありましたし、書くだけのネタもありました。
ところが、ADHDあるあるですが「考えながらも行なえない、より瞬間行動すべきことをしてしまって後回しにする」という実行能力の弱さのために、ずっと後回しにしてしまうことが続いていたのです。
それを御言葉を通して「やりなさい!」と言われ、もともと書きたいと思っていた私は「書くことを実行する」ことに集中したのでした。

つまり、御言葉で「書きたい」と思っていた私が、「書く」という実践をする考えに変わったということです。それで、何が何でもやる、という力になりました。

このように、神様を愛するという心のもと「神様の御言葉を守ろう」ともがく、その過程の中で繰り返し行うということはあります。
しかし、これも何も知らない人から見たら「強制的に苦行をさせられている」と捉えられてしまうのかもしれません。
大事なのは自分自ら行いたいと思ってできるか否かで、そのために神様の御言葉があるのです。私も明け方起きるのが苦しかった、苦行だった時期はありましたが、今では神様と通じる喜び、祈ったときと祈らなかったときの違いをよく実感しているので、バイトで寝るのが遅くなってもなんとか明け方の時間を守ろうともがいています。

もう一つの方法は<よいことは感動がなくても実践すること>だ。
そうしてこそ体質になって<感動を受けて実践する段階>に上がるようになる。

肉も調子が悪い時や弱っている時はもっと食欲がない。
食べたい気持ちにならなくても薬を飲んで、よいものを食べてこそ食欲がわいておいしく食べて回復し、動く段階に上がっていける。
体質をつくる時は感動がなくても行うことだ。-摂理の御言葉「瞬間に打ち勝ってこそ勝利する」より

つい最近聞いた御言葉でとても共感したのがこの部分です。
自分を作るときには「やりたい」と思えなくても、やる気が出なくても、続けて行っていくという過程があります。
しかし、その根本となるのは「自らやりたい」と思う心です。

というわけで、摂理に強制はありませんが、自分自ら決心して「何がなんでも行う」ということはあるのかなと私は思います。
ただ、繰り返しになりますが、これは「強制されて」できることではなく、むしろ「自らしたい」と思う気持ちから来る、神様の目から見ても尊い行いなのです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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