サイトアイコン 摂理研究所/キリスト教福音宣教会

真実な証に込められた真実な愛。

おはようございます、satoです。

以前、私の教会で証大会がありました。
「私と御言葉、私と主」というテーマで、それぞれ原稿を作って5分で「神様が自分に働きかけたこと」や「神様との経緯」を証する時間でした。
私も文章を作って証しました。

摂理に来て間もなく「カルトだ」と書かれている記事を見て以来、摂理のことが分からず、神様のことも分からなかった私。
ただ、御言葉で教えてもらったイエス様が好きで、イエス様の愛を感じて信じていた私。
しかし、それから2年経ち私は色々な面で限界にぶつかっていました。その時、ただ一言の御言葉を聞いて私は悔い改めをしました。

そこからの何年は、苦難が続きました。
何かがうまく行かない、というより「自分の負の面」と向き合い本当に死にそうになりました。精神面は死にかけていましたね。
その一部は「アンチカルト論」で書いた話なのですが、あの時は本当に苦しくて、本気で「命を絶つ」という考えがよぎりました。
「生きても地獄の苦しみ、死んでも同じ…それなら」って。

(私が現在構想中の物語にもこの経緯をモチーフにした話を入れようと思っています…)

死ななくて良かった、と今なら言えます。

ここではさすがにすべてを書くことは出来ませんが、証大会では自分の一番恥ずかしい過去と「闇の中にいたその時」を話しました。
自分の負の面と向き合う中で、摂理の真実、真実な主と出会い、悟ったという証。
そして、苦しんでいた部分を救ってくださったこと。

話していて、自分でも力を受けました。
自分がどこから救われたのかを思い出して、本当に感謝しました。
聞いていた人も、とても感動していたようです。

唐突ですが、私が書いた物語の中でFくんというキャラがいまして、彼はとても感謝しながら神様を愛する人です。
自分でもどうしてそこまで感謝するのか、どうしてそこまで嬉しそうなのか疑問だったのですが…^^;
最近になって彼の物語を読み返して、彼は「過去自分が苦しかったこと、そこから救われたことをずっと感謝していた」ということに気づきました。
この姿勢、私も心掛けたいと思いました。
つまり、私が救われた経緯、苦しかったことを忘れないで、永遠に感謝すること。

人には誰しも失敗があり、苦しかったことがあります。
それが恥ずかしいと隠してしまうことはできますが、実は人が一番力を受けるのはそういうところなのではないか…と色々な話を聞いて思いました。
…以前私のブログを読んで「satoの記事はそういう正直なところがいい」と話してくれた人もいました(´;ω;`)

私が救われたその場所、どこから救われたのかを思い出して、永遠まで感謝する、その生を生きていきたいです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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