こんばんは、satoです。
よく摂理に来た人が次のようなことを話します。
「私は摂理に来て人生の問題が解かれました。今幸せです」
「私は鄭明析先生の御言葉を聞いて、人生が変わりました。今は幸せです」
「摂理に来て、私は変わりました」
いうなれば「摂理に来て私は幸せになった」という言葉です。
世の中には「これをすると幸せになる」とか「ここに来れば幸せになる」という言葉が氾濫しています。
そして、その大概の言葉は真実とはかけ離れた犯罪行為…主に詐欺とか、マルチ商法に使われています。
特にマルチ商法は宗教や自己啓発セミナーの形で近づいてくる人が多いので、気を付けなければなりません。
マルチ商法をする宗教は犯罪行為をする団体、すなわち「カルト宗教」ということになります。
果たして、摂理はどうなのでしょうか?摂理ではどうして「摂理に来たことで人生の問題が解かれた、幸せになった」というのでしょうか?
そして、それは本当なのでしょうか?
摂理で詐欺とかマルチ商法はあるのか?
まず、摂理の中で詐欺やマルチ商法を示唆するようなことは…私が7年以上いた中で一度もありませんでした。
むしろ、摂理人には「詐欺師、マルチ商法に気をつけなさい」と注意を促し、信仰を持つ人たちが騙されないようにしてます。
また、教会内でこのような行為をしてはいけない、と常々注意をされます。
伝道して「高額の教本」や「講義ビデオ」を買わせる、ということも一切ないです。むしろ、御言葉を基本無償で伝えています。
参考までに私の経験談を書かせてもらいます。
その昔、私がBS(バイブルスタディー)を聞いていた時のことですが、一度ある別の宗教に関する注意書きを大学で見たことがありました。
そこに書いてあったのは、BS形式で教えていって心を開いたところに高額商品を買わせる、という旨のことでした。
これを見た私は「あれ、これって私が聖書の話を聞いているところと似ている?」と疑問に思いました。
もしかして、あそこはこの団体なのか…と思った疑り深い私は、BSを聞きに行くときにその注意書きが書かれたビラを持っていきまして。
BSを一通り聞いた後、講義を伝えてくれた人にそのビラを見せながら…
「みなさん…この団体に騙されてませんか!?」
と聞きました。…えぇ、さすがに「ここはこの団体ですか?私を騙しているんですか?」と聞くのは失礼ですし、そんな度胸もありませんでした。
その後、牧会者と話して「しばらくちゃんと見てみてほしい」と話され、私は続けてBSを学びました。
それから、もう7年近く経ちますが…最初に書いた通り「高額の壺」とか「講義ビデオ」を買わされたことも、それを売れと言われたこともありません。これは私がこの目で確かに確認したことです。
なお、講義の一部は摂理の公式サイトにアップされています。無論、無料で誰でも見れるようになっています。
摂理のことについて言及するものの中には「献金という名目でお金を取っている」という言葉もあります。しかし、私はこの言葉も摂理の実情には合わないと感じています。
摂理の中で献金は常識の範囲内で捧げています。私は学生の身分なのでそんな高額のお金を出しません。生活ができる範囲で捧げてます。
また、誰がどれくらい捧げたか、という話も一切聞いたことはありません。それは
イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。-ルカによる福音書21章1-4節
この聖句にあるように、「金額でなく真心をご覧になられる」神様の想いゆえです。
神様が真心をご覧になるのに、私たちがお金の大小であれこれ言うなら、神様を信じるものとしてふさわしくないですよね?
そういうわけで、摂理では「献金を多く捧げなさい」という話は出てきません。
これは「献金を使ってお金を稼いでいる」というのとは合わなくないですか?もしお金をたくさん得たいなら「献金を多く捧げなさい」というニュアンスが少なからず表れてもいいはずです。
しかし、実際のところ摂理で言われているのは「真心を込めて献金を捧げなさい」ということです。むしろ「心がないなら献金を捧げない方がいい」というほどです。
ちなみに…信仰生活に時間を投資しすぎてお金がない…なんていうこともたまにありますが、鄭明析先生は「しっかり働いて経済でも祝福を受けなさい」と話されています。
ここでも大事なのは、「神様に向かう心」です。お金をたくさん稼ぐことでなく、会社で神様のことを考えながら働き、経済の祝福を得ることを神様は願われます。
だから、摂理ではお金を得るために不正行為をしてはいけない、と厳しく言われています。まして、詐欺行為やマルチ商法を行なったり、勧めるということはありません。
摂理に来たら、本当に幸せになるのか?
さて、それでは「摂理に来たら幸せになれる」というのは本当なのでしょうか?
これに関しては…気になる方も多いのではないでしょうか?
摂理に来て幸せになれる、そんな話を聞くと「洗脳されている」とか「宗教にハマって、盲目的になっている」なんて考えませんか?
私は結構、こういう考えが強かった人です。
結論から言いますと…「摂理に来たら幸せになれるか」は、自分次第です。
そもそも、「ここに来たら幸せになれる」とか「この話を聞いたら幸せになれる」というのは正しくありません。
いい言葉を聞いたら瞬間幸せな気分になることはあるでしょうが…それは本当の幸せではありません。
そもそも、どうして「ここに来たら幸せになれる」という言葉に惹かれるのか、というと、それだけ生活の中で苦しいことがあるからです。
生活が苦しく、心が苦しく…そういう問題を解決したくて「苦しさから抜け出せる」ところを探しに行きます。
ところが、実際に苦しいところから解放されるためには生活の中でぶつかる「問題」を解決しなければなりません。
そして、それは「ここにいるから」とか「この話を聞いたから」とかで解決できるものではありません。
生活の中の問題は自分が「行なうこと」で解決しなければなりません。ただ「信じる」だけで幸せになれるわけじゃないんですよね。
これは摂理に来ても同じことです。このことを私は摂理の御言葉を聞くことで学びました。
ここでも私の経験を書かせてもらいますと、私も摂理に来る前はとても苦しかったです。
自分がどうして生きているのかも分からず、ずっと得体のしれない不安感と「生きることに対する苦しさ」が続いていました。
死にたいとは思いませんが、ずっと生き続けることが苦痛でした。本当にそこから逃れたかったのです。
摂理に来て、御言葉を聞いたり教会の人と共にするととても嬉しかったです。本当に心が楽になりました。それで、私は摂理にいるようになりました。
しかし。
一人になったとき、私の心の苦しさはずっと残っていました。何も変わっていなかったのです。
生きることに対する苦しさ、虚無感、不安…。ずっと残っていました。
「どうして摂理に来たのに、変わっていないんだろうか…」と、時が止まったかのような、心が固まったかのような感覚に陥っていました。
これは、自分の【生活】が変わっていなかったからでした。生活が変わらないから、自分の心の苦しさは変わらないのも当然です。
そういうわけで、「摂理に来たら幸せになれる」という話は「自分次第」ということになります。
なお、これは「摂理で結婚したら幸せになれる」という話についても同じように適応されます。つまり、摂理で祝福を受けて結婚したとしても、それで幸せになれるかは「自分の努力次第」です。
では、どうして「摂理に来たから幸せになった」という人が多いのか?
上に書いたように「摂理に来たら幸せになれる」かは自分次第なのですが…。
実際には「摂理に来たから幸せになった、救われた」という人は多いです。
私が摂理の教会で会った人たちを見ると、皆幸せそうでした。無論、生活の中の苦しみはありますが、それでも「やりがい」を感じて生きている人が多かったです。
どうして、摂理にそういう人が多いのでしょうか?
それは、摂理の御言葉が「生活の中の問題を解決する方法」を明確に正しく教えているからです。
今まで誰も解けなかった人生の問題、聖書の問題、自分の心の問題…こういったものに対して、鄭明析先生は「どうしてそういう問題が起こるのか」について神様の視点から話し、それを解決するためにはどうすればいいのか、明確に教えられました。
摂理に来て救われた、という人は自分がぶつかっていた問題が御言葉によって解かれたからそのように話しているのでした。
摂理の御言葉は「実践」重視です。つまり、「実践すること」を念頭に、分かりやすく伝えられています。
これは伝統的なキリスト教の御言葉が「神学的、観念的」であることと対照的です。
また、「どうして神様を信じるのか」についても明確に話されてます。だから、より人々が分かって信仰を持てるし、実際に行うことができるのです。
人生に目的があるから、それに向かって生きるから、苦しくても「やりがい」を感じるのです。
私自身も、摂理に来て一度壁にぶつかったときにこの問題と向き合うようになりました。
自分の心にある問題、神様に対する信仰が持てなかったこと…それら一つ一つを解いていくことで、問題が解決されていきました。
不思議と自分が信仰的な問題を解決していくに従って、発達障害のことについて知る人と出会えたり、数学研究においても色々な助けがあったりして、生活の問題も解かれていくのでした。
何より大きかった「自分を持てない」、「自己肯定感が低い」という問題も徐々に解決されるようになり、幸せを感じられるようになりました。
今でも「人生を生きる苦しさ、虚しさ」を感じるときはあります。
それでも、私は前より確実に成長していると感じるし、「幸せだ」と感じるし、「生きがい」を感じてます。
結論
「摂理に来たら幸せになれるのか」と聞かれたら、私はこう言いたいです。
摂理の御言葉を聞いたら、多くの問題が解決されるようになる。
しかし、「幸せになれる」かはあなたが摂理の御言葉をどれだけ聞いて、どれだけ行うかにかかっている。つまり、「あなた次第」だ。
そういうわけで、「幸せになりたい、苦しさから抜け出したい」と思ってこのブログに行き着いた方は、公式サイトも見てみて、一度摂理の御言葉を聞いてみてほしいな、って思います。
もっというなら、ただ聞くだけでなく、とりあえず信じてみて行ってみてほしいな、と願います。
…余談ですが、こうやってブログに自分の信仰に関するいきさつを書くと、力を受けますね。
改めて「信仰の問題」から着手することが大事だな、と再認識しました。明日からの生活に活かします(*‘∀‘)
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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