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摂理に来て失ったこと、得たこと。~サークルを休会する経験から~

摂理に来て、失うこともあるけれど…

こんばんは、satoです。

引き続き、摂理に来て変化したこと、得たこと、知ったことを書いていきたいと思います。
…ところで、「摂理に来て失ったこと、得たこと。」ってタイトル、ちょっと衝撃的だったかもしれません。

摂理に来て得たことを書く人は多いですけど、摂理に来て失ったことを書く人はなかなかいません。パッと見、ネガティブに見えますからね…。

ただ、私個人としてはポジティブな面、ネガティブな面両方をしっかりと説明したいと考えています。いいところばかり見せるのもフェアじゃない、と私が感じるからです。

自分の人生を見ても、根本を分かって正しく説明ができなければ、 自分の人生の長所、短所を見つけられず、 長所を生かすことができず、短所を直せない。 鄭明析牧師の明け方の御言葉より@

摂理でも「説明が大事だ」という御言葉をよく話されます。

だから、ちゃんと「摂理に来て失う」ということについても説明したいと思います。

さて、摂理に来て失うこと、それは。

神様から見たときに自分に本当に必要でないもの、本物でないもの

です。

ただ、今まで「それ」を大切にしてきた自分にとっては、それが「失った」と思うくらいに衝撃的なことなのだと思います。私もそうでした。

サークルを休会した私の話

私は摂理の御言葉を聞いてそれまで所属していたサークルを一旦離れることにしました。
それは、御言葉を聞きながらサークルを辞めなければならないという風に感じたからです。
また、自分が御言葉を聞いていくことによってサークルの雰囲気と合わなくなってきたということを感じていたからでもあります。

当時私はサークルで「何月までにはこの曲でこの演技をして、何月の発表会にはこれで…」という脳内計画がありました。そのためにサークルに入った、と言ってもいいくらいでしたし、サークルの人達も私がその演技をすることを期待していました。

また、その人達と趣味が合うこともあって、その関係が切れることに対してもとても抵抗がありました。

だから、サークルを離れる、ということをしたときには

あぁ、どうして辞めてしまったのだろう…。やりたいことがあったのに…。

と未練が消えませんでした。

摂理にいるから、できないんだ…。摂理に来なければ、あの演技もできたのかな…。

という考えすら出てきていました。 実際、その後も何回かサークルの発表会に参加しようと練習に行ったことがありました。

 

理想的なものを与えるために、捨てる。

コリント人への第一の手紙13章9-10節
なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。

しかし。 摂理に来て「失った」と思うことがあったとしても、それは一時的なものです。

神様は自分が「失った」分、もっと理想的なものを「得られるように」してくださる からです。
だから、最後まで行った人にとっては「摂理で得たものが多い」と考えます。(それ故に、「得たこと」を書く摂理人が多いのかもしれませんね)

一方で、途中で摂理から離れた人は「摂理で全てを失った」という風に考えてしまうでしょう。

私の場合は、前者でした。
結局、サークルでしようと思っていた演技は、摂理でもできました。 それも、もっと理想的な形で。

今でも摂理でサークルで練習したことを披露する機会があります。 見ている人は本当に喜んでくれるし、楽しんでくれます。
やっていて、本当に嬉しいし、本当に楽しいです。

おそらく、摂理に来なかったらここまで楽しく演技することはなかったように思います。
また、
人間関係についても、

一旦離れることによって本当に付き合える人とだけ付き合うようになりました。そして、本当の信頼関係を摂理を通して得られるようになりました。

そもそも、私は人間不信なところがあって、人と深く付き合うことが本当に苦手でした。 いつも、人に嫌われていないかを気にして、人間関係を保つために行動していました。

だから、結構ストレスがかかっていました。

でも、摂理に来て神様の愛を受けてから、本当に自分のことを想ってくれる愛に触れてから、人間関係も自分のことを考えてくれる人と接すればいいということがわかり、心が楽になりました。

最終的にはサークルのみの付き合いの人とは疎遠となり、本当に友達だと思っている人とはつながりが持てるようになりました。

摂理にいるなら、最後まで。

もしかしたら、こういう人がいるかもしれません。

摂理に来たら/来たから、勉強ができなくなる/なった

摂理にいるから、就活がうまくいかない

摂理に居たから、青春をすべて失ってしまった

こういう考えがあるなら ちょっと待った!! です。

本当にそれは「失ったこと」なのでしょうか?もしかしたら、それはもっと「理想的なもの」を得るための過程かもしれませんよ。

たとえば、自分が全てを賭けて臨んだ会社に採用されなかったとしましょう。

そういう時、もしかしたら それを通して直してほしい自分の性格や習慣があるのかもしれません。

あるいは、そこに入ると生活がうまく行かなくなるから(ブラック企業とかね)、神様が止めてくださったのかもしれません。

はたまた、もっと自分に合う理想的な会社があるのかもしれません。

では、この会社に入るために努力したことはどうなるのでしょうか?全て無駄に終わるのでしょうか?

そうではありません。 その努力の土台の上に、さらに理想的なことが成される のです。

是非、それを信じてみてください。そして、確かめてください。

確かめることが本当の信仰」なのですから。

私も多くの失敗がありましたし、自分がやろうとしたけどうまくできなかったことがありました。 でも、それを通して多くのことを得てきましたし、今も得られると信じています。
ある意味
「失ったこと」と「得たこと」は一つのセットなのかもしれませんね。 だから、失うことを恐れずに、新たに、理想的なものを得るために摂理に来てみてほしいです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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