おはようございます、satoです。
学生時代、私は目的が曖昧となっていた時期がありました。
そのとき、研究や論文作成も根本は「自分を変化させるために」行うのだ、ということに気づいてから少し精神的に安定してきました。
その後、すぐに寝て起きて、明け方の礼拝に行きました。
そうしたら、そこで次の御言葉が出てきました。
仕事に溺れる原因は、仕事の根本の目的、
つまりあなたがその仕事をする目的を考えないからだ。
私をまことに愛して行う、その目的を抜かして、
私をいつも考え、感じながら行わなければ
その仕事は肉的な仕事になってしまう。(中略)
だから私を24時間考えから離さず
-摂理の御言葉「接触してこそ生きる。生活の中の愛だ。」より
共にする愛の生活をしなければならないのだ。
考えで私をまず探して呼び、共にし、接触することがとても重要だ。
最近の状態がまさにこの御言葉の通り「目的を失い、喜びを失った状態」だったのです。
目的が「神様と愛し合うこと」だということが抜けていました。
その上、私はこのとき論文などの関係でストレスがいろいろ溜まっていたのでした。
こういう「余裕のないとき」にでも、神様のことを考えさえすれば愛の言葉、喜びの言葉は出てきます。
でも、私にとって「苦しい、つらい」という感情はなかなか消えずどうしてもそれを晴らしたい…という感情的な発言をしようとしていました。
それは、明け方の御言葉を聞いた後でも同じでした。
正直、ゼミに行きたくない…。
もうやめたい…。
そういう考えが出てきますが、それでも「神様のことを考えて」感謝の言葉を出しました。
「これが過ぎればまた何かが起こる」と考え、ゼミに向かいました。
今やめてしまったら、後には何も残らない。そのことは理解していました。
主を傷つける、そのこともわかっていました。でも、あの時はあまりにも苦痛だったのです。
それでも、言葉だけでも、感謝をしました。
ゼミでは発表をせず最近送った論文の添削をしつつ、色々な話をしました。
私がストレスになっていた原因の一つが「時間をかけたのに、論文の文章があまりにひどい…」ということでした。
正直これってどうなんだろう…と思いつつ、「自分が書く」と言ったのにこのありさまでは…とかなりへこんでいました。しかし、教授はいつものように(私のひどい英文を見て)あきれつつ(笑)添削をしてくれました。
この時点で私の心は安堵したのですが…さらにいろいろ近況を話したところなんと
教授を通して経済の祝福が…|д゚)
授業関連であることをしていて、それにお金がかかっていたのですが(あくまで自分がしたいからしていたのだけど)、その話を聞いてこっそり|д゚)あんまり詳しくは書けないですが…。
教授の後ろに神様を見ました。教授を通して神様が助けてくださっていたことを感じました。
ゼミが終わった後、本当に感謝の言葉しかありませんでした。そして、それまでの辛いと思っていた自分の小ささも切実に感じました。
それによって、「もっと自分を捨てたい」と思うようになりました。
よく忘れてしまうけど、私たちのことはすべて神様が助けるのです。だから、私たちがすべきことはひたすら「神様の願いを成すこと」。
だけど、自分が少しでも残っていたら…自分のすべきことの方が大きく見えてうまく行えません。
だから、もっと自分を捨てたい、と切実に思うようになりました。
「神様のことを考えた」時に神様が助けることをはっきりと感じられるし、はっきりと受けられるのです。
そういえば、さっきの自分が授業関連でしていたことも、それを通して「一人でも神様のことを感じられる機会にしたい」と考えながらしていました。最近はすっかり忘れてしまいましたが…。
もっと感謝し、もっと自分の抱える心配、悩み、不安を捨てながら喜びで生活していきたい、社会人となった今も改めて思いました。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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