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どうして摂理にいると「つらく思う」時があるのか?

おはようございます、satoです。
本日は私の経験から感じた「摂理にいると感じる疑問」について書いた過去の記事をまとめたいと思います。
これはあくまで私の経験に基づいたものなので、参考程度に。

さて、私は摂理にいても「神様に愛されていないのでは?」と感じるときがあります。
こう感じる理由として

等が挙げられます。
この3つに対して、いずれも鄭明析先生の御言葉で答えが与えられています。

まず、第一の場合ですがこれは端的に言うと「神様の考えと自分の考えは異なる」ということです。

例えば、リンゴが欲しい、とお祈りしたとしましょう。
その時その人にとっては「リンゴがもらえる」ということがあって初めて願いが成就された、と考えます。
しかし、神様にとっては「リンゴジュースをあげること」もその人の願いを叶えたと考えます。それは「成分が同じ」だからです。このように、神様はすべての本質を知って願いを成就しようとされます。
その上で、「現在の状況」と「将来」まですべて計算して最高の方法でこの願いを成就されるのです。よって、祈ってすぐに願いが成就されるとは限らず、あるときは一日後、あるときは一週間、一ヶ月、1年、3年…とあとから願いが成就します。
確実に言えるのは「神様はすべての祈りを漏らすことなく聞かれて、必ず成就なさる」ということです。
よって、こういうときは「自分の認識」を捨てて、「神様は必ず祈りに答えてくださる!」という信仰を持って祈り続けることが大事です。その方が「神様が叶えてくれなかった…」と愚痴るよりは精神衛生の面からもいいです。

また、緊急性が高いときには「状況を神様に残らず告げる」ことが効果的です。神様としても「人間が話してくれてこそ状況を解決できる」ので、その方がいいのです。

結局「祈ったのに叶わなかった」を含めた「自分はこんなに愛したのに、それに対する報いが少ない…!」という考えは「自分の考えと神様の考えの違い」によって説明ができます。
自分の考えでは「神様によくした分すぐに自分にわかる形で(物がもらえる、自分の祈った通りになるなど)返ってくる」と思っていても、神様から見たら「私によくした分、もっとも相応しいときに、一番ふさわしい形で返そう」としているのです。
神様は必ず行った通りに報いてくださいますが、それが肉で生きている間とは限らず、むしろ「霊界で、天国に行ったときに」返してくださる方が多いです。何故なら肉で享受するのは一瞬だけど、霊で与えたら永遠に続くからです。また、肉で感じるより数百倍霊で感じるので、もっと嬉しさを感じるからでもあります。

そういうわけで…いつも善をしている人はもっと天国に行かなければなりません。何故なら…「自分が善く行ったことが天国で報いられる」からです。いくら善いことをしても「天国に行かないと」報われないです。それは神様からしたらとても残念なことなのです。

第二の場合「何をやっても嬉しくなれない」についてですが、これはさまざまな場合があります。
「不安なことや心配なことを抱えている」とか「ずっとやっていることについてばかり考えている」とかで賛美や祈りに集中できていない、心を注げていないという場合は、先にその問題を解決することが必要な場合もありますし、あるいは一旦「思い切って大声で賛美する!」ってやり方もあります。私はこのやり方をしていて、思いっきり賛美すると結構スッキリすることがあります。

あるいは「自分と神様の間に距離がある」とか「神様のことをどうしても好きになれない」とか、そういうケースもあります。これについては「罪がある」から悔い改める必要があったり、あるいは「過去の傷」が由来することもあります。

いずれの場合にせよ、大事なのは賛美や祈りが楽しくない、何をやっても寂しいと感じる場合、その現象そのものよりもっと深いところに原因がある場合が多いということです。その場合、そのことを解決することを優先すべきです。
また、「何をやっても嬉しくない」状態を気に病むことはなく、むしろ「そういう状態でも賛美・祈りをしている」自分を褒めていいと思います。ポジティブな気分で賛美しましょう。ヤケでもいいかもしれません。

第三の場合の「自分に罪があるから、足りないところがあるからそれを指摘されるのが怖い」という理由でつらくなることについてですが、御言葉ではよく自分ができていないところを「できるようにしなさい」と指摘なさいます。
実を言うと、このように御言葉が宣布されるのは「できてないから」であって、できているなら言う必要がないのです。

では、どうしてこのようにできていないところを話されるのか?
人間だと「自分が嫌だから」とか「見せしめのため」など、自分中心の指摘になりがちです。
摂理に来る前、そのような形の指摘を多く受けた人は特に、その経験が思い出されて
「神様は自分が嫌だから指摘するんだ」
と認識してしまいます。
無意識のうちに認識されてしまう、いわゆる鄭明析先生の御言葉の「凝り固まった状態」になってる人も多いです。

しかしながら、神様としてはそんな思いは微塵もないわけで。
なぜそう言い切れるかというと、神様にとっては「御言葉を守れないこと」よりも「愛して創造した」人間である方が遥かに大きく映るからです。もっとも、神様が罪について寛容なわけではありません。罪を犯したら、神様は心をいためられます。しかし、メシアが代わりに悔い改めることで、「愛して創造した」人間であることを思い出す。
だから、私たちにはメシアが必要だと言えるのです。

では、どうして話すのかというと「それを治すことでその人がよりよい人生を生きられる」からです。
人間にとって最も楽な道、嬉しい道とは本来「神様の考え通りに生きること」です。
なので、神様の考えである「御言葉」を聞いて行ってこそ楽なのです。それがつらく感じられるのは「神様の考え通りに生きない生に慣れている」からであって、慣れればこっちの方が楽です。
そういう訳で人間にとって嬉しい道に行かせたいから、できてないところを指摘なさるのです。
まぁ、この辺りは認識を常に転換する努力が必要であり、長年摂理にいる私も全くできていないのですが…。

まとめると「つらく思う」ことの理由、そのすべてが「自分と神様との考えの違い」で説明できます。
もっというと過去の自分の経験、触れてきた考えと神様との間に大きなずれがあることが最大の原因と言っていいです。
なので、摂理に来てから一番すべきことは自分の認識と神様の考えの間のずれを無くしていくことに尽きると思います。
これは長く時間がかかることで、摂理に来て15年の私でも未だできていない部分が多いと思います。
その代わり、ずれを修正していくことで段々と摂理にいて「辛い」と感じる場合は減ってきていると思います。

わかってみると「摂理は自由なところ」です。それを味わえるような体験ができることをお祈りしています。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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