サイトアイコン 摂理研究所/キリスト教福音宣教会

本音の祈りが、最高の祈り

だと、私は感じているのですが、皆さんはどう思いますか?

おはようございます、satoです。

つい最近、教会で共にしている人からこんな話を聞きました。

最近お祈りに関する教育の御言葉があったのですが、それを聞いたその人は「自分は今まで神様が全て知っていると思って色々話していなかった」と気づきました。
そして、それから自分の思ったことをそのまま神様に告げていたのだそうです。
たとえば、アイスが食べたいから、食べます!とか神様はこうしてほしいと思っているのだけど、自分はしたくなれません!とか。
そうしているうちに、自分の中にある問題に深く向き合い、解けたのだと話していました。

その話を聞きながら、「とても良いなぁ」と私は感じました。
実際、話しているその人の姿を見てみても、とてもスッキリしていましたし、本音で話した結果自分の問題が解かれていたからです。

「アイス食べます!」とか、私は聞いてて面白かったし微笑ましかったです。
少なくとも、神様もそういう気持ちだったのではないかと想います。

私は結構人に話していることなのですが、お祈りをするときは、なんでも話していいと思っています。
なんでも、というのは神様に対する願い求めや感謝はもちろんのこと、苦しいという感情、怒っていること、哀しみ、時には不満すら…。
私自身も昔「自分を捨てなさい」という御言葉を聞いてどうして捨てなければならないんですか!!?と叫びましたし、基本的に思ったことを話すようにしています。逆に、こういう本音で話さなくなると調子を崩してしまいます。

日本人は真面目な反面、「社会的に悪いとされる」ような自分の本音は話さない傾向にあります。いわゆる本音と建前の世界ですね。
私はこれが苦手かつ嫌いだったので、摂理に来てからは神様に対して本音で話してました。それによって色々なことが解かれましたし、神様との経緯も作られました。
しかし、多くの人はこれに苦戦しているようです。それはおそらく「自分が何を思っているのかを、自分自身が知らない」ということにあるようです。

神様の御言葉は、真理であり、全て正しいです。
しかし、だからといって自分がすぐに受け入れられるとも限りません。自分が神様と離れて生活をしている時間が長いほど、自分と神様の考え、体質が異なっているからです。そういう時の心の反応こそ、「自分の考え、本音」とも言えます。
本来は「神様を愛する」ように創造されたので神様を愛する気持ちが出てくるのですが、考えが御言葉と違っているとそれがうまく出てきません。

そういうときは、まず自分が「どう思っているのか」その思いを素直に認めること。
そして、それを率直に神様に告げること。それが神様にとって一番喜ばれる祈りになります。

どうしても日本人は真面目で、悪く言えば少し型にハマりやすいタイプの人が多いのでお祈りも綺麗事ばかり話すことが多くなってしまいます。私もそうなるときがあります。
だけど、それだとつまらない。もっとその人の本心を聞きたい。本心を聞いた時に心が嬉しくなる。納得できる。
それは神様も同じだと思います。

祈りが楽しくないと感じる時、それはもしかしたら「キレイな言葉で祈ろうとしている」からかもしれません。
もちろんキレイな言葉で祈る時があっても良いのですが、いちばん大切なのは「自分の心」。
自分の心が神様に向かう時、それが神様に届く祈りになります。それがキレイな言葉でなかったとしても。

自分と向き合いながら、無理をすることなく、楽しく祈りができますように( ´∀`)

参考:美しくない素直な祈り@摂理の猫カフェ

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
モバイルバージョンを終了