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「厳しくすること」で表す愛もある。~塾で学んだこと~

おはようございます、satoです。

長いこと働いている塾バイト。
最初は失敗することも多く、生徒ともなかなかうまく話せなくて「自分には向いていないのでは…」と落ち込むこともあったのですが、冬期講習とか受験を経験して生徒ともだいぶ話せるようになってそれなりに色々できることが増えてきました。
色々な面で不向きな部分が多いと感じてはいますが、子供が好きな私は話していてとても力を受けるところがあります。

この塾で学ぶことはとても多いです。
生徒の状態が神様の前での自分の姿だ…と感じたり、生徒に話した指導があとで振り返ると自分の普段の生活で引っかかったり…^^;
逆に、自分が鄭明析先生のように「一人の人として向き合う」ことを意識した一人の生徒が大きく変化したことを通して鄭明析先生の御言葉の威力を感じたり。
その中でも一番変わったことの一つが「愛」に対する認識でした。

私はこの塾のバイトをする前、いつも

「どうか神様の愛で生徒たちに接することができますように。
鄭明析先生がされたように、ひたすら愛で教え導いてあげられますように」

とお祈りをしていました。そのこともあって、だいぶ生徒に愛で接することができるようになりました。
…未だにイラッとしたり、皮肉を言ってしまう悪い癖が出てしまうのですが(´・ω・`)

ところで、今まで私が「愛」と思っていたのは、生徒を傷つけず、間違いがあっても気にせずに許してあげることでした。
なんか失敗があっても「いいんだよ~」って言ってあげる。それが良いことだと思っていました。
…私自身が特に小学生に至るまで学校の先生や親に怒鳴られたり、叱られたりして傷を受けたのでどうしてもそれができないのですよね。

しかし、最近「厳しくする愛」もあるということを学び始めました。
これまでは宿題をある程度できていたら褒めてあげ、多少の不備があってもスルーしていたのですが、塾でのミーティングで「もう少し厳しく宿題をしているかチェックしよう」という方向になりました。それで、私も丁寧に見てあげることをしました。
この時に、このように「宿題をしっかりやっているか」を厳しくチェックすることは、生徒への愛なのだと感じるようになりました。

私が見る時に、一つ一つの問題をしっかりやっているのかをチェックするのは、「できていないところを見つけよう」とするわけでなく生徒が頑張ってやってきたことを見逃さないで見つけてあげるためでした。もし仮にしっかりやったのにそれを見逃したら、生徒は「見てもらえなかった…」と落胆するか「しなくていいのかな?」と考えてせっかく頑張ろうとしたのにやめてしまうかもしれません。それを防ぐことが大事なのです。
また、たとえ不備があったり途中で終わっていたとしても、その理由を聞いてあげ対策を教えてあげるのですが、それも生徒がしっかりできるようにするために助ける想いでしています。…時たま「もう少しだったのにね~」って言ってしまって生徒をがっかりさせてしまうのですが…(´・ω・`)この辺りは言い方が悪いので反省します。

細かい所までチェックするとか、どうしてできなかったのかを尋ねる、というのはある意味でとても厳しいし、特にできなかった時には「嫌な感じ」になりますよね…。
私も、神様の前でそうでした。何か引っかかることがあったり失敗したことがあると、とても気まずく、「もっとユルイ方がいいなぁ」なんて考えてしまっていました。

しかし、神様が

テアテラにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子が、次のように言われる。

口語訳聖書 ヨハネの黙示録2章18節

とあるように私達を「炎のような目で」ご覧になるのは、私たちの小さな頑張りも逃さないで認め、褒めてあげるためなのです。
「厳しくする」ことで、生徒の頑張りを逃さず、生徒の困っていることを逃さないようにする。
「厳しい」ことでできる愛もあるのだと分かりました。

私自身、自分としっかり向き合っていく中で最近「細かいところを厳しく」悔い改めているのですが、それを経て感じるのは自分の悪いところを切ることで、自分の良いところをより良く見せることができるようにしたいと言う神様の思いを感じています。最近は特に。

もちろん、必要以上に叱ったり、生徒に手を出すことはしてはいけないことです。それは厳しい、という話でなく単なる武力です。
だけど、生徒の良いところ、大変なところを見逃さないために「厳しくしてあげる」ということもまた大事なのだ…ということがわかり、私の神様に対する愛の誤解がまた一つ解けました。
本当に感謝します。

もう一つ、「細かいところを厳しくする」と言うことをやるにつれて、「厳しく見ている」神様が何より自分自身に対して「厳しくしている」のも感じます。
実際、神様は全知全能なのでもちろん決めた時間通りに働かれるのですが、ある意味人間がこれを実践するためには自分自身に対して厳しく厳格に、それこそ「心を込めないと」できないわけで、神様もこのようにしていると分かります。
この点を踏まえて改めて振り返ると、私は今も厳しくしているところはありますが、どこかで「良いところを見る」のが抜けている気がしています。自分に対しても他人に対しても。そこは反省です。

神様が私たちの頑張りを見逃さないように、私も生徒の頑張りを見逃さないように、そして褒める表現をもっとうまくできるように次元を上げていきたいです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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