おはようございます、satoです。
宗教に対する日本人の認識に、「信仰を持つ人は弱い人間だ。弱い人が拠り所として行くのが教会だ」というものがあります。
端的に言えば「弱い人間のための信仰」という話です。
でも、これって本当でしょうか?
今日はそれについて私の認識を書きたいと思います。
そもそも私は「弱い」?
まず、私はどちらかと言えば「弱い」人間でした。
自分に軸がなく、人間関係を構築するのがとても苦手な私は、いわゆるスクールカーストと呼ばれる社会においては「弱者」でした。
周りとうまく馴染めず、自分のいじられるキャラを利用してなんとか生き延びた感じでした。
だから、摂理に来たのは半分「居場所を求めてきたから」というものがあります。
実際、摂理に心の拠り所を見いだせた、というのはあります。
また、こんなツイートもありました。
聖書は2000年前から、人はみな罪人(つみびと)だといってますね。クリスチャンの大半は「自分は、一瞬でも目を離したらとんでもなく悪いことをしかねない人間だ」と自分のことを思っているはず… https://t.co/y0nuKp4GJc
— 結城浩 (@hyuki) 2017年7月15日
この「自分を治める」という点においても、私は「弱い」方です。
私は食べ物とかメディアとか睡眠とか、誘惑に負けることのほうが多いです。
自分の時間の使い方を見ても、自分が自分を治めることは到底できません。これは正直そう思います。
摂理に来た人は大抵何かしらの限界にぶつかっていたことが多いです。
周りと上手く馴染めなかった、どこか虚しさを感じていた、自分自身の悪なる感情を治められない…etc。
そういうことがあって「世の中とうまく馴染めなかった」人が多いです。(中には社会的に成功している人もいますけど)
そういう意味では、摂理に来ている人は「弱者」と呼ばれる人が多いかもしれませんね。
本当の「強さ」と「信仰」
しかし、その一方で…。聖書を見てみると「信仰」は「弱い人が持つもの」とは思えないような状況が多く見られます。
たとえば、有名なステパノの殉職。
人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。 -使徒行伝7章54-56節
こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。-同59-60節
果たして、本当に「弱い人」がこのようにできるでしょうか?
もし心が弱ければ、人々が怒る中で堂々としていられません。そもそも、人目を気にしていたら群衆を前に話すことすらできません。
さらに、死の直前でも祈り続け「殺す者の罪を許した」のです。これはもはや「見えないもの、霊、復活」への確固たる信仰がなければできないことです。
聖書の歴史を見てみると、極限状況において「神様を信じた」人が最後には成功しました。
そこには「弱い人がすがる」というものが見られません。むしろ、極限状況下でも「見えないものを信じる」ということができる時点で相当に信仰が篤いです。
殉教で思い出しましたが、日本はローマの次に殉職者を出した国です。特に江戸時代に多くの迫害が起こりました。
驚くのは、迫害され、殉教したキリシタンが最後まで賛美したり、罪を許すように祈ったということです。
日本は無宗教の国ですが、信じたならば「死すらも恐れない」堅い信仰を持つ人が多くいました。
それが、かつて戦争において欧米列強を恐れさせた力でもあります。
まとめると本当に信仰を持った人は、見えない神様を信じて最後まで行う。だから「弱い」ままでは信仰を持つことができない。ということです。
自分の弱さも「神様を表す」ために
最初に言及したのは「自分を治める弱さ」、そして「社会的弱者」と呼ばれるカテゴリーでの見方です。
その後に出てきたのは「心の強さ」です。この2つは明確に異なるところですが、最後に、次の聖句を見てみます。
こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。-マタイによる福音書5章3-4節
自分を治めることができない、という弱さを知っている人は、幸いな人です。
自分が完璧でなく、弱点がある、悪い性格を持っていることを知り、苦しんでいる人は幸いな人です。
人間は生まれながら「完璧」ではありません。
その肉体は完璧ですが、心は作られていません。それは「神様と共に」自分を作るためだ、と御言葉で教えられました。
だから、「自分が完全でない」というのは正しい認識です。
そして、それを悲しんでいる、ということは「完全になりたい」という気持ちの表れです。
そして、自分の弱点はまた「神様を表す」ためのものである、とも書かれています。
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。-コリント人への第二の手紙12章9節
私は脳の特性上弱点が多いです。先程の誘惑に弱い、というのもADHDの特性的にはあります。
だけど、それを言い訳にして諦めるのでなく、御言葉を通してうまく自分を治めていく…というより、神様に委ねる。
その時、その弱いところで崩れない私に「神様」を見ることができるのです。
自分を治められず、異性に弱かった私が現在まで信仰を持てていること。大きなトラブルなく過ごせていること。
自分の軸がなかった私が、自分のすべきことに向かって前進していること。
その一つ一つが、私に働く「神様のしるし」なのです。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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