おはようございます、satoです。
ここ最近私が見たある記事から感じた「私の葬るべきもの」についてのお話です。
最近女子の間で流行っているらしい、とあるやり取り。それが
「おじさんLINEごっこ」
です。
なんでも、「(女子に対して下心のある)おじさんが若い女子に送るメッセージの文体を真似た」メッセージを送り合うのが流行っているのだそうです。
これを見ながら、「あれ、私の文章これっぽくないか?」と感じています…^^;
特に、教会に連れて行く過程でなんとか引っ張ろうとしていたり、自分が親しくなりたいと思う人に対するメッセージがこれに近い…^^;
「句読点が多い」というのはあまりありませんが、「さりげない下心」(=もっと近づきたいけど、相手に嫌われるのが嫌だから言えない…けど出てしまう感じ)とか「意味もなく自分のことを話す」(=自分のことを話すことで少しでも話をしたい)というものがこれっぽい。
私の葬るべきものの一つが人に好かれようとする心といいますか、あるいはもっと端的に言えば(間違った)自己愛です。
どうも自分は人に好かれようとする欲があり、その根本にあるのが「自己愛」です。自己愛、と言っても神様が願う「自分を全て認めて愛する」感覚でなく「自分の欲、自分の嗜好を愛する」感じですね。
これが少しでもあると…妙に人に気に入られようとしたり、人の目を気にしたり、そういうのが出てしまいます。
その結果、自分が見たら「とても違和感のある」、もっとストレートに言うと「キモい」文章が出ています…(´・ω:;.:…
もっとも、そういう時は相手に「不快にさせてしまったなら申し訳ない」と謝るのですが、相手は気にしていない様子(なのか、優しいのか…)で自分の考え過ぎ、ということが多いです。
しかし、私の中にある「自分の嗜好」がにじみ出ていて、私自身がとても嫌な気分になります^^;
そもそも、仲良くなりたい!と思う人ほど突っ込みすぎて対話が上手くできず、特に話しかけることがとても苦手なのです。
それで過去失敗したことが幾度あったことか…^^;
そんな私に今週おっしゃったメッセージが、こちら。
信仰の中では互いに<異性>や<人間的な情>でどんどん関わっていってはいけません。
私たちは<神様の御心と目的>をもって生きるから、いつも誰に会うにしても「主の中」で「御心」のために会い、行なわなければなりません。
-2017年9月24日鄭明析先生の主日礼拝の御言葉「外側は美しいけれども、中身が違う。行ないで分かる」より
人間的な情、つまり「好かれたい」とか「慰められたい」という気持ちで接するのではなく、そういう気持ちは神様との愛で満たして、ただ神様の考えで接すること。それが私にとって一番スッキリするし一番嬉しいことです。
瞬間「あの人と話せるチャンスだったのにもったいなかった…」と考える時もありますが^^;
とにかく、神様の御心に任せて、会うべき人と会って話せるように、そして自分の中にある「自分の嗜好」を捨てて神様の心と一つになれるように頑張ります。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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