おはようございます、satoです。
本日は以前から考えていた聖書についての話を書いていこうと思います。
タイトル通りダビデがエルサレム神殿を建てなかった理由の自分なりの考察になります。
その前提として、信仰を持たない人がよく言う話の一つとして神様を信じている人がどうして人を殺すのか?という問題があります。具体的には、神様の名前で戦争をしたり、人を殺すことを聖戦だ、と言ったりする人を指して言っているのかなと思います。
今回はこの疑問、特に「神様の名前で人を殺そうとする」ことについて、聖書ではどう書いてあるのか、という話をして、神様は人を殺すことを良いと思っていないということを話したいです。
9/11追記:ソロモンが行なった業績について追記しました。
まえがき-ダビデ、ソロモン、エルサレム神殿について-
そもそも、ダビデとはどういう人でしょうか?
簡単に言うとイスラエル統一王国の二代目の王であり、イスラエルを平定した王です。
モーセによってエジプトを脱出したイスラエルの人たちは、その後40年を経てアブラハムが信仰の条件を立て、神様から約束されたカナンの地に入ります。
ヨシュアを筆頭にし、カナンの地の先住民との戦いを経て土地を得ました。(ヨシュア記)
しかし、その後イスラエルの人たちが信仰を捨てることによって、周りの敵対している国からの侵略に遭い、助けを求めるイスラエルを見て、神様が士師と呼ばれる助ける人を送る、ということが続いていました。(士師記)
この頃の信仰については、次の聖句が象徴だと私は思っています。
そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった。
-士師記21章25節
この聖句は17章6節にも書かれており、要するに人々が自分なりの信仰を持って、自分が正しいと思うことをやっていた、という状態である、ということです。
その後、信仰の中心として預言者サムエルが立てられたのですが、彼が年老いた頃周りのイスラエルの人達は自分たちを治める王がほしいと言い出しました。
8:4この時、イスラエルの長老たちはみな集まってラマにおるサムエルのもとにきて、 8:5言った、「あなたは年老い、あなたの子たちはあなたの道を歩まない。今ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」。 -サムエル記上8章4-5節
そこで、神様が最初に選んだのがサウル王でした。しかし、サウル王はサムエルを通して伝えられた神様の命を行うことができず、最終的にはサムエルと袂を分かつことになりました。
一方、サウル王が生きていた頃から、神様の目に適う信仰を持っていたダビデはサウル王のもとで勝利を重ねていましたが、民からの羨望を受けていたのを見てサウルは嫉妬と地位を失うことの恐れからダビデを殺そうと追いかけ回します。しかし、サウルはダビデを殺すことができず、最終的には戦争で死んでしまいます。
その後ダビデが中心となってイスラエルの周りにいる敵対する国と戦い勝利することによって、イスラエル統一王国が独立した形で完成しました。
イスラエルの中心となった街がエルサレムであり、そこに聖殿を建てようと言う構想がダビデにはありました。しかし、これは神様によって否決されました。
17:1さてダビデは自分の家に住むようになったとき、預言者ナタンに言った、「見よ、わたしは香柏の家に住んでいるが、主の契約の箱は天幕のうちにある」。 17:2ナタンはダビデに言った、「神があなたとともにおられるから、すべてあなたの心にあるところを行いなさい」。17:3その夜、神の言葉がナタンに臨んで言った、 17:4「行ってわたしのしもべダビデに告げよ、『主はこう言われる、わたしの住む家を建ててはならない。 17:5わたしはイスラエルを導き上った日から今日まで、家に住まわず、天幕から天幕に、幕屋から幕屋に移ったのである。 17:6わたしがすべてのイスラエルと共に歩んだすべての所で、わたしの民を牧することを命じたイスラエルのさばきづかさのひとりに、ひと言でも、「どうしてあなたがたは、わたしのために香柏の家を建てないのか」と言ったことがあるだろうか』と。-歴代志上17章1-6節
そして、神様はダビデの子であるソロモンが神様のための聖殿を建てることをダビデに伝えます。ダビデはこのことを喜び、神様を褒め称えます。
ソロモンは、知恵の王で有名ですね。魔術関連でよく出てくるのと、最近だと某ソシャゲでもよく聞くので名前はよく知っている、という人が多いと思います。
そんなソロモンは神様に知恵を願い求め、その知恵を持って周りの国と戦争ではなく外交によってイスラエル統一王国を認めさせ、平和を保ちました。
このソロモンによって、史上初となる神様のための建物、聖殿が建てられました。
考察-どうして神様はダビデに聖殿を建てさせなかったのか-
ダビデがイスラエル統一王国を強くし、周りの国から独立させた、という功績は神様の目にもとても大きなことです。
神様視点でいうと、神様を信じる人達が信仰を持って運営する国が作られた、ということであり、アブラハム一人から始めた信仰の歴史において『国ができる』ということはその後の世界に神様の御言葉を伝えるための堅固な拠点となるからです。
また、ダビデはいくつかの罪は犯しますが、ダビデは常に神様を褒め称え、栄光を帰す信仰を持ち、勇敢であり、罪を犯したら直ちに悔い改める、というように信仰面でも立派な存在です。鄭明析先生の御言葉でも信仰がいい人の象徴としてよく使われるほどです。
そんなダビデが神様の聖殿を建てるということは、ダビデの功績を残す、という意味でも相応しいように思います。しかし、神様はそうしませんでした。この理由を考察したいと思います。
理由①:時間と材料の問題
エルサレム神殿は相当大きな建物であり、その材料も金、銀、青銅、糸杉等々貴重なものが使われています。
実は、神様が来られる中心の場所に貴重なものが使われる、ということはモーセの時代からありました。
25:1主はモーセに言われた、 25:2「イスラエルの人々に告げて、わたしのためにささげ物を携えてこさせなさい。すべて、心から喜んでする者から、わたしにささげる物を受け取りなさい。 25:3あなたがたが彼らから受け取るべきささげ物はこれである。すなわち金、銀、青銅、 25:4青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸、やぎの毛糸、 25:5あかね染の雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、 25:6ともし油、注ぎ油と香ばしい薫香のための香料、 25:7縞めのう、エポデと胸当にはめる宝石。-出エジプト記25章1-7節
これらは神様に捧げものを捧げる天幕、また祭司が着る服を作る材料として使われています。
しかし、天幕(今で言うテントがイメージとしては近いかも)と聖殿では必要な材料の規模が異なります。それ故、ダビデが建てたいと思っても、多くの戦いのあとその材料が残ってはいなかったと思われるので、それを用意する時間が必要でした。実際、
22:2ダビデは命じてイスラエルの地にいる他国人を集めさせ、また神の家を建てるのに用いる石を切るために石工を定めた。 22:3ダビデはまた門のとびらのくぎ、およびかすがいに用いる鉄をおびただしく備えた。また青銅を量ることもできないほどおびただしく備えた。 22:4また香柏を数えきれぬほど備えた。これはシドンびととツロの人々がおびただしく香柏をダビデの所に持って来たからである。 22:5ダビデは言った、「わが子ソロモンは若く、かつ経験がない。また主のために建てる家はきわめて壮大で、万国に名を得、栄えを得るものでなければならない。それゆえ、わたしはその準備をしておこう」と。こうしてダビデは死ぬ前に多くの物資を準備した。
-歴代志上22章2-5節
こちらの聖句にあるように、ダビデは聖殿を作るために多くの材料をソロモンのために用意したとあります。ソロモンだけの力ではおそらく集めきれないと考えてのことだと思います。
この聖句の中にもありますが、神様の聖殿を建てるからには、他の国が見ても素晴らしい、ここに行って神様に仕えたいと思いたくなるような、壮大かつ優美な建物でなければならないでしょう。その後のソロモンも含め、周りの国と戦うことで奪ったり、外交によって得たりすることで多くの材料を用意しています。
ただ、今回はこれとは別の方向でこの考察を深めたいと思います。
理由②:戦争で人を殺したダビデが聖殿を建てるのは相応しくなかった
今回主張したいのは、神様が自分の名を残す聖殿をダビデに建てさせなかったのは、ダビデが戦争で多くの人を殺していたからであるということです。実はこれも聖書に書かれています。
22:7すなわちダビデはソロモンに言った、「わが子よ、わたしはわが神、主の名のために家を建てようと志していた。 22:8ところが主の言葉がわたしに臨んで言われた、『おまえは多くの血を流し、大いなる戦争をした。おまえはわたしの前で多くの血を地に流したから、わが名のために家を建ててはならない。 22:9見よ、男の子がおまえに生れる。彼は平和の人である。わたしは彼に平安を与えて、周囲のもろもろの敵に煩わされないようにしよう。彼の名はソロモンと呼ばれ、彼の世にわたしはイスラエルに平安と静穏とを与える。 22:10彼はわが名のために家を建てるであろう。彼はわが子となり、わたしは彼の父となる。わたしは彼の王位をながくイスラエルの上に堅くするであろう』。-歴代志上22章7-10節
また、先の聖句でも
17:6わたしがすべてのイスラエルと共に歩んだすべての所で、わたしの民を牧することを命じたイスラエルのさばきづかさのひとりに、ひと言でも、「どうしてあなたがたは、わたしのために香柏の家を建てないのか」と言ったことがあるだろうか』と。-歴代志上17章6節
とあるように、神様の名を残す建物を建てることはヨシュアや士師たちにも話していませんでした。これはダビデと同じように、イスラエルを守り、地を得るために多くの人を殺していたからではないか、と推測します。
そもそも、神様はモーセに与えた十戒の中でも「人を殺してはならない」と話しています。
あなたは殺してはならない。-出エジプト記20章13節
そのような神様が、イスラエルの国を得るためとはいえ多くの血を流した人によって聖殿が建てられたとしたら、周りの人はどう思うでしょうか?
-「人を殺すな」と命じた神様が、多くの人を殺した人の手によって聖殿を建てさせる。これは矛盾しているのではないか?-
と思うでしょう。そして、「人を殺してでも自分の名前を残す」ように見える神様を嫌悪するでしょう。ちょうど「神様がどうして人を殺すのか?」と言って神様を信じない人のように。
イエス様の行いを見ても分かるように、神様は本来全人類を愛して、今まで生きるようにしてくださっています。「人を殺す」というのは、どういう意図があったとしてもこの神様の思いに反する行いなのです。
よって、神様のために、と言って人を殺す行いを神様がよく思う、ということは絶対ありえないということができます。
もしそうなら、ダビデが聖殿を建てていたでしょう。しかし、実際には平和の王としてソロモンが建てています。
この事実が、「神様のために人を殺す」ことに対する神様の答えを雄弁に物語っています。
まとめ
神様が何を願うのか、それは次の聖句が全てを物語っています。
22:37イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 22:38これがいちばん大切な、第一のいましめである。 22:39第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 22:40これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
-マタイによる福音書22章37-40節
神様は自分のできる限りを尽くして神様を愛し、また自分と兄弟を愛することを願われています。
たとえ、自分と敵対する人がいたとしても、その人を許し、愛してあげることを願っています。
一方で、ヨシュアやダビデの時代は人々が戦争し、殺すことでしか解決できなかった時代でもあります。特に神様を信じない人は、イスラエルの民を本気で殺そうとしていました。だから、彼らからイスラエルの人達を守るためにヨシュアやダビデは戦っていたのです。このことを理解して旧約聖書を読まないと誤解してしまいます。
3:16神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 3:17神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。-ヨハネによる福音書3章16-17節
イエス様の御言葉によって、今は人を害することなく互いに平和を成すことができる時代になりました。マタイによる福音書の聖句が実現できる時代になった、とも言えます。
だから、この時代に戦争をし、人を殺すことによって目的を成し遂げることは全てにおいて相応しくない、と言えるでしょう。
エルサレム神殿を建てたソロモンは、周りの国々に知恵を与えたり、必要なものをやり取りしたり、外交によって平和裏に国防問題を解決していきました。
私達もまた、平和と愛によって全てのことを解決していかなければならないのです。それは争うこと以上に大変なときもありますが、最後には必ずエルサレム神殿以上に雄大で美しい結果を残す、と信じます。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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