おはようございます、satoです。
最近始めた読書習慣、以前買った『スマホ脳』と『藤井聡太論』は読み終えたので、次は何にしようか…と考えていたのですが。
本棚を見ていて、実は以前に買っていて読んでなかった本が意外と多いということに気づきました。
数学の専門書が8割、発達障害の解説本が1割なのですが、それ以外にも色々あるんですよ、私の本棚。
どうして本を読めなかったかというと、本を読むよりYoutubeで動画を見るほうにハマっていた+電子書籍でラノベと漫画をひたすら読んでいたからなのですよ。
まぁ、ラノベの方は『読んでいて深く考えたこと』があるので、それはおいおい書いていこうかなと思います。
というわけで、昨日の夜その一つである『数学小説 確固たる曖昧さ』を読み始めたのですが、あっという間に読み終えて気づいたら日付が変わっていました(´・ω・`)眠気のあまりすぐにバタンキュー…。
明け方4時にはかろうじて起きたものの、眠気のあまり最近「声に出して祈りなさい」と言われているのに、数秒声に出して祈って意識が飛ぶ…というのを1時間繰り返していました。ほんとスミマセン…。
しかし、この本を読んだことで、自分の信仰の器が大きく広がったので、今日はこの本の感想をまとめたいと思います。
本の紹介
著者はガウラヴ・スリさんとハートシュ・シン・バルさん、どちらの方も数学の修士号をアメリカ大学で取得しています。なので、数学の専門家としての知識はあります。
が、ガウラヴさんは経営者。ハートシュさんはジャーナリスト。ということで数学の研究はしていませんし、小説家でもないみたいです。
また、翻訳者は東江一紀さんで、北海道大学出身の翻訳家です。
以下、帯についているあらすじを書きましょう。
インドからアメリカに留学した青年が偶然知ってしまった祖父の暗い過去。
数学者だった祖父は若いころ、1919年にアメリカで逮捕され、拘置所にいた。神の冒涜を禁じた州法に触れた疑いによって。その顛末を知ろうと、青年は、祖父が獄中で判事と繰り広げた数学対話の記録を読み始めた……。
数学的真理以外を認めなかった祖父、信仰心厚い判事、生きる意味を求める友人、何にも情熱を傾けられない「わたし」。
祖父の過去を追ううち、数学が人々の世界観・人生観を揺るがしていく。
数学に、人生に、絶対的真理は存在するのか?
さて、タイトルに有るように、この本は数学小説になります。
そういうわけで、この本の中では数学の内容が多く出てきます。それも割と本格的なものが。しかも、この数学が物語の核の一つとなっていて、数学によって人生の見方が変わっていく人々がありありと書かれています。
数学の内容についてはこのあと書いていきますが、一つ一つの内容についてはとても詳しく説明されているので、数学が専門でない人でも読みやすくなっています(が、これは数学を専門的に勉強している私の視点では、ということにご注意ください)
また、数学の内容だけでなく、数学者がどのように考えているのかが手記という形式で書かれています。これはどこまで現実なのかは不明ですが、数学者の数学的事実だけでなく心情まで伝わり、さらに小説内の問題につながるという点でとても面白かったです。
内容のポイント
この本の最大の核心は「数学と哲学に絶対的真理が存在するのか?」という問題です。
そのことを議論するために『神様を信じる』クリスチャンである判事と、『数学における演繹的推論を正しいと信じる』数学者である主人公の祖父の対話が、主人公が取り巻く環境と合わせて描かれています。
出てくる数学は、大きく分けて主人公が大学教授の授業を受ける際に出てくるものと、数学対話の中に出てくるものの2系統があります。
前者はゼノンのパラドックスを起点として、無限級数の収束・発散問題、カントールが議論した集合論(自然数の集合は偶数の集合と等しく、実数の集合より本質的に小さい、対角線論法)を経て連続体仮説に至ります。
後者はユークリッドの『原論』を基にして、ユークリッド幾何学を公準から証明していく試みについて話し、第5公準問題を経て、非ユークリッド幾何学(双曲幾何学、リーマン幾何学)に至り、アインシュタインの相対性理論とその実証となる観測が絡んでいきます。
数学的真理、というのは公理から出発して、決められた推論と定義を用いて一つ一つの数学的事実を証明するというもので、祖父の主張はこの数学的手法がすべての分野で…特に人生における哲学にも適用できるということです。
そしてそれを宗教に当てはめると、神様の存在や万物が創造主によって創造された、ということは数学的に証明すべきことであり、よって正しいとは分からないと話しているわけです。
これに対して、神様の存在、万物が神様によって創造された、ということは絶対的な真理である、と考える判事。
祖父が逮捕された場所というのは(典型的な)クリスチャンの町で、ダーウィンの進化論等聖書に書かれていることと異なるものは信じないという考え方が支配しているところです。
そのため、『その信仰が正しいとは思えない(論理的でない)』という祖父の主張を受け入れられず、『神を冒涜した』として逮捕に至った、というわけです。
しかし、この判事は信仰心が厚いだけでなく、相手の話をしっかり聞き、つぶさに聞いて判断できる人でもありました。そこで、祖父の信念の核である『数学的手法』、つまり『公理から出発して、推論と定義を用いて正しさを判断する』ことについて深く触れるわけです。
ところで、数学を勉強している人なら知っているように、『連続体仮説』と『第5公準問題』はどちらも独立した命題である、言い換えると『正しい/正しくない』を判断できない問題であるということがこの物語の大きな転換点であります。
もう少し正確に話すと、現在の集合論は(パラドックスを起こさないように)集合を定義するための公理から出発し、その定義を用いて議論する(詳しくは数学基礎論/数理論理学)のですが、この公理系を満たした上で『連続体仮説が真である』集合論も、『連続体仮説が偽である』集合論も構築できるということが証明されています。
また、第5公準問題とは…第5公準を分かりやすい形で書くと「一つの直線と平行で、直線上にないある1点を通る直線は唯一つだけ」というものですが、これが他の4公準から証明できない、というものです。これも他の4公準を満たした上で『第5公準が偽である』、つまり一つの直線に平行で、直線上にないある1点を通る直線が1つでないような幾何学を作れるという形で解決されました。ちなみに「直線が1つもない」のがリーマン幾何学(球面上の幾何学)で、「直線が複数ある」のがボヤイ・ロバチェフスキー幾何学(双曲幾何学)です。
信仰を持っていた判事は「何の主観もなく、正しいということが分かる」数学の正しさに触れ、自分の信じていたものが証明できるのか、大いに悩みました。
これと同時に、祖父は「何の主観もなく正しいということが分かる」数学の正しさが本当に正しいのか、大いに揺れました。それは、無条件正しいとできるはずの第5公準が成り立たないような幾何学が存在するということが判明したことからです。さらに、アインシュタインの相対性理論を実証する観測(日食時にある星を観測することによって、太陽の質量で空間が歪んでいることを確かめるものでした)によって、実際の空間はユークリッド幾何学のように『まっすぐ』でなく、非ユークリッド幾何学のように歪んでいる可能性があるということが分かり、それまで正しいと信じていたユークリッド幾何学が条件付きで正しいとなってしまいました。
これはつまり、正しさの根拠であった公理が本当に正しいのかという根本的な問題にぶつかったためです。
これがどのように解決されたのか、また、主人公の人生にどのように影響したのか。
そして、『確固たる曖昧さ』とは結局何か?
これについては、実際の本を読んでいただければと思います。
個人的に思ったこと
さて、ここからは個人的な感想であり、悟りです。
まず、主人公の祖父が逮捕された町の住人は、先程も書いたとおりフィクションでありがちな宗教を信じる人の書かれ方をしています。実際にはこういう人がわりかしいるんだと思います。
で、摂理にいる私が一番思うのは、これを見て『宗教を信じている人はヤバい』という認識を持ってもらいたくないということです。確かに、こういう盲目的な信仰をしている人も一定数いますが、そうでない人もいます。
これは摂理にいる人に当てはまる、というだけでなく、他の宗教を信じている人でもそうでした。私は昔仕事である有名な宗教の信仰を持っている人と交流していたことがありますが、とても親切で善良な人でした。
また、鄭明析先生も「盲目的な信仰を止めなさい、はっきり分かって信じなさい」とはっきり話されています。そして、聖書に書かれていることで曖昧なことはすべて理解できるように教えてもらいました。
実を言うと、私はどちらかと言えば盲目的な信仰を持っていた方でした。その経緯は色々あるのですが、その一方で「これは危険だ」と考え、現実的な内容と合致しているかどうかちゃんと自分で考え、確認して解いていきました。
世の中の様々な主張と御言葉をうまく擦り合わせ、御言葉を正しく理解するように努めました。それで今の確固たる信仰があります。
では、これが数学を勉強していたおかげか、というとそうでもなく…どちらかと言えば摂理でこのように合致しているか確かめるようにしたことで、数学の思考法を学んだというところがあります。
盲目的な信仰は確かに危険であり、人を害することもありますが、その一方で信仰と論理は共存可能であり、論理的な信仰は、むしろ多くの人を受け入れる寛容さを増し加えることができます。それは自分の中で確固たる基準があるから、周りの言動でアイデンティティが揺れないためです。
なぜ、自分と異なる考えを持つ人を排除するのかというとそのことで自分のアイデンティティに危機が生じるためです。人は自分に危機が迫ると『闘争か逃亡か』という極限状態に陥る、というのは以前紹介した『スマホ脳』で書いてあったとおりです。よって、揺れないようにするためには確固たる基準が必要となるのです。
ところで、私の中で『神様が存在すること、愛していること』や『神様が天地万物を創造したこと』については、まだ論理立てて納得できているわけではありません。が、少なくとも前者についてははっきりと信じています。それは自分自身が経験しているからです。
それと同様に、『数学が正しいこと』と『公理的手法で数学が証明できるが、それだけが数学でない』ということもまた経験によって信じています。
このような自分の経験を通して、何が正しいのかをはっきりと信じることが重要であると思うし、この小説の最終的な結末でもあるのです。
最後に、以上の点を踏まえた上で、それ以上に大事なのは人生を生きるということは現実である、ということです。
特に数学を含めた科学を勉強している人は教理の正しさに気を取られがちですが、我々がどのように生きるべきか、死後どうなって、どう生きるのかという問題は観念でなく現実問題として捉えなければなりません。
なぜなら、私達が今生きること、いつか死ぬことは現実だからです。そして、現実問題を解決する際に多少の論理の飛躍というのは問題にならないことがあります。
これは数学でもそうで、現実に数学の問題を書く時に集合論の公理のどこを使った、ということを考える人はほぼいません。集合論の専門家は別ですが。
御言葉を聞くのは今現実に生きる私が、どのように考え行うべきかを学ぶため、そして現実にぶつかる多くの問題を解決するためであるということを念頭に置いて、信仰生活をすること。
これは、今の私にとって大きな悟りであり、また、多くの人が頭に入れておいたほうが良いことだなと、私は思ったのでした。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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