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改めて、生と死について考えてみる。~小説から悟ったことその1~

おはようございます、satoです。
今日は、書きたいことがありましたが、

オヤビンとコブン 社会問題と向き合う

こちらの最新作を読んだら、頭が吹っ飛びました。

なかなかにディープな内容で、とても心を揺さぶられました。

創作意欲と同時に、私にこれが書けるだろうか?なんて疑心が浮かびました。

…まぁ、書けませんよね(´・ω・`) そりゃそうです、だってこれは麦わらさんが向き合って作った作品であって、私が向き合って作ったわけでないですから。
私は私で、向き合って考えたことがあって、私にしか書けない話もあるのですよ。

いじめ、虐待、自殺…等々の現代社会が抱える問題に、本気で向き合って作られたこちらの作品。色々観点が覆りますので、ぜひご一読を。
(YouTubeにアニメ版もあります(人´∀`).☆.。.:*・゚)


ここまでが、伝えたかったことです。

以下、読んで思ったこと。(余談なので、興味のある方だけ)

昨今、尊厳死や安楽死のような「死ぬことの自由」が主張されています。
ネットでも、死にたいという時に死ねるような国になってほしい、という話があります。

でも、ですよ?

私が思うに、本当の『死』とは、暗くて、冷たくて、二度と戻れない、「怖いもの」なんです。

だって、ホラー映画を見て怖く思うじゃないですか?高いところを見て、刃物が自分に向けられるのを見て、怖く思うじゃないですか?
人は元来『傷つくこと』は避けようとします。それは人間に限らず動物の脳には生存本能…『より長く生き続けること』があるからです。そして、『死』とは、『生存本能』と対極のところにあります。

『生きたくない』というのには『それだけ辛く思う問題』があるからです。そっちを解決して生きられるならその方が良いのではないでしょうか。そして、解決の仕方が分からないから、生きたくないのです。

私もかつて、多くの怖いこと、辛いことがありました。そこから逃げたくて「死にたい」と思ったことが何度もありました。あるいは、「橋から落ちたらどうなるだろう」と考えることも。
その辛さからは正直まだ完全には抜け出せていません。でも、前よりはましになってきたし、生きたいと思うようにはなってきました。

だからこそ、私は今『死ぬ』のが怖いです。もう、あの怖い思いをしたくないのです。

と、ここまでは麦わらさんが書いていた内容(から自分が想起したこと)です。これからはまた別の視点で。

その一方で、『自分は絶対死なない』『自分は絶対安心だ』と考える人もいます。コロナの状況下でも『自分は絶対に大丈夫』という自信を持つ人がいます。
そういう人にとっては『死』というのは遠い存在で、せいぜい『ゲームに出てくるステータス』くらいの認識なのではないか、なんて思ったりするのです。ゲームオーバーになったらやり直す、そんな感覚。

でも、ですよ。

『死』というのは、突然やってきますし、一度『死んだ』ら、本来二度と戻れないものなんですよ。

ある日突然交通事故に遭う。脇見運転していた車に轢かれたり、衝突する。
突然の病気、気づかないうちに進行していた何か、によって。
不注意、油断、によって瞬間命を失う。

かつての戦争の時代、人は生きることが難しい時代でした。爆撃と貧困、飢餓と苦痛と病気。

今はこれらはありません。しかし、それでも多くの事故の可能性はあります。あるいは、ネットを介して心を殺すようなことが起こるかもしれません。

『死』というのは、突然、何の前触れもなく、来るんです。

これは、私が読んでいたある小説の話なのですが、そこには多くの人がいました。自分には特別な力がある、という多くの存在が。
その中には死から生き返るとか、そもそも死なないとか、そういう存在もいました。
しかし、そういう驕り高ぶっていた存在がどんどん、死んでいきます。復活もありません。ただ一つの『死』という存在によって。

現実でもそうです。

地位、名誉、権勢、実力、お金、才能、能力…どれを尽くしても『死』からは逃れられません。人間は必ず死ぬのです。

命を失うことだけが死ではありません。足を怪我すれば『足の機能』が死に、頭を怪我すれば『体の機能』が死ぬこともあります。事実、私が知っているだけでも周りでこのようなことが何回かありました。幸い、怪我から回復して元気に生きていますが…。

逆に言うと、我々が何かを努力するのは、究極的には『死』から逃れるため、でもあります。それは生存本能から来る自然なことです。
例えば、お金がないと食べられないから生きられない。だから働くし、お金を稼ぐ。
また、コミュニティから外れると生きられない。敵から逃げるために工夫をしなければならない。
(人間はコミュニティを作って生きてきましたから、脳がそうなっているのです)
だから、人は人間関係を作ろうとするし、仲間を作ろうとする。つながりを求めて、SNSを使う。

しかし、それでも事故は起こるし、命の危機は起こりうるのです。
周りが『死にたい』と思うようなことが、『死ぬ』ようなことが、突然自分に起こることもあります。
その時に、あなたはどうしてほしいですか?助けてもらいたいのか、自分が乗り越えられるように支えてほしいのか、それとも自分一人で生きるのか。
正直言いますと、私は自分が死ぬ目に遭う可能性をいつも考えますし、助けてほしいのです。だから、周りの人を助ける、という要素もあります。最も、そんな打算的な理由以上に「人が喜んでいるのが好き、楽しいのが好き、安心する」という考えもあるのですが。

『周りに起きていることは、自分にも起こりうることだ』

この考えを持つだけで、世界は広がると、私は思うのです。そして、そのときこそ、今生きていることの貴重さを感じられるのかな、と私は思います。

全ての『死にたい』と思う人達がぶつかっている問題がなくなりますように、祈ります。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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