おはようございます、satoです。
以前「推し」の分析をやってみたことがあったのですが、そこから推しと信仰は共存しうるのか?について考察をしております。
この考察をするうちに私はあることに気づきました。
摂理に来たことによって、「なんとなく好き」が「推し」になった気がする。
今日はこの話について考えていきたいと思います。
摂理に来る前の私の好きの傾向
まず、私が摂理に来る前の「好き」の傾向を分析するために、摂理に来る前の段階で好きだったキャラを挙げていきたいと思います。こんな感じです。
- 蒼星石(ローゼンメイデン)
- 古明地こいし、フランドール・スカーレット、水橋パルスィ、ルーミア(東方シリーズ)
- リセルシア・チェザリーニ、フォーニ(シンフォニック=レイン)
- サーニャ・V・リトヴャク(ストライクウィッチーズ)
- 長門有希、朝比奈みくる(涼宮ハルヒシリーズ)
- 如月古雪(プラネットガーディアン)
- 八神はやて(なのはシリーズ)
- 能美クドリャフカ、神北小毬(リトルバスターズ)
- グラトニー、マース・ヒューズ(鋼の錬金術師)
- ゼロス・ワイルダー、プレセア・コンバティール(テイルズオブシンフォニア)
これ以外にも多くのキャラがいますが、大体が能力が好き…というか、自分でその能力を使ってみたいキャラだったりするので、今回は除外しました。また、太字部分は「推し分析」にも掲載したキャラです。こう見ると意外と少ないのですが。
摂理に来る前から知っていたキャラが、後から推しになったケースもあって、たとえばレジンキャストミルクの柿原里緒はこのタイプです。あと、神北小毬は前から好きでしたが、後になんやかんやあって「推し」になったケースです
ところで、これらのキャラを眺めると、私の中では以下の共通点があります。
- 派手な綺麗さというより、どちらかと言えば落ち着いた感じの可愛さがある
- 言い方は悪いが若干地味、だけどしっかり可愛い
- あるいは、小さい、子供っぽい(クドやグラトニー、ルーミア)
- 男性だと飄々としてる三枚目に見えて、実は優秀なキャラが多い
- その作品における一番人気、でないことが多い(気がする)
何故かわからないのですが、私はちょっとメジャーじゃないものを好きになる傾向にあります。これは割と今もそうです。
大多数の人が注目しているなら、なんか良いかな、それより自分はこっち…となりがちです。たとえば、ローゼンメイデンでいうと水銀燈とか翠星石辺りが結構人気なのですが、私はそれより蒼星石のほうがしっくり来るのです。
サーニャとか長門辺りは結構な人気キャラですが。
ただ、これが「推し」かと言われると若干違うよなぁ…ということで前の推し分析では殆ど入っていません。
摂理に来てから、「推し」になったケース
それでは、摂理に来てから「推し」になった、というのはどういうことなのでしょうか?
この例として、摂理に来る前一番好きだった、と言っていい古明地こいしを例に分析してみます。
そもそも、どうしてこいしが好きだったのかというと
- 「無意識を操る程度の能力」がすごく面白そうだった
- (ある同人誌で見た)笑顔がストライクだった
- 無邪気な姿に癒やされた
という感じです。基本的に純粋で、明るい笑顔が好きだった感じですね。
余談ですが、以前入っていたサークルで「好きなキャラ」をお題に書いた時に彼女の笑顔を描いたのですが、かなり可愛いものになっていました。見ていた人が本当に好きなんだって分かる!というくらいにはとても良い作品でした。
その関係か、今でも手癖で書けるくらいにはイラストで出てきてました。
なんだったら、礼拝に出る直前くらいまでもこいしが本当に好きで好きで…
私は好きなものに対する熱は尋常じゃないということが、今までの記事を読んだ人ならなんとなく感じていると思うのですが、この好きについて肯定してもらった時に「こいしが好きだ~!」って叫びそうになったことがありました。
ところで、ちょうどこの頃に摂理に来て聖書について学んでいき、礼拝に出るようになったのですが、この際に以下のようなことに気づきました。
- 神様の愛の話をしているけど、こいしのスペカには結構ハートが使われているなぁ
- なんとなく虚無、自分がない感じが自分と似ているなぁ…
要するに御言葉との共通性や自分との共通点に目が行くようになったわけです。それで、こいしが自分の写し身、象徴という感じに変わっていったのです。これが私の中で「推し」と呼べる理由です。
元々古明地こいしが好きだったけど、それだけでなく御言葉や自分との繋がりを見いだせるようになって、「推し」に変わっていったというのが私の感覚です。
摂理に来なかったら推しにならなかっただろうキャラ
摂理に来てから「推し」と呼べるキャラが増えました。というか、摂理に来て一度漫画やアニメを見ない時期があったので、後から漫画を見るようになって推しになったキャラが出てきています。そのため、今までの自分の好みとは違うキャラがだいぶ増えています。
ところで、私の中で推しと呼んでいるキャラは自分の中で関わりがある、経緯や自分の中に思い入れがあることが多いです。そこが基準となっているので当然ではありますが…。
その中で摂理に来なかったら推しにはならないだろうな…と思ったのが『咲』の松実玄です。無邪気な明るさ、という点は確かに私の好きになりそうなキャラではありますが…実はそういう意味でいうと姉の松実宥の方が自分の中でしっくり来ています(笑)
そもそも、おそらく摂理に来なくても麻雀は好きだったので、この作品には出会っていたと思うのですが、ここで推しキャラは作らないと思います。私はどちらかと言えば「作品そのもの」を見ることが多いので、好きなキャラがいない作品も多くあります。その場合は大抵能力や考察が面白いとか、戦闘シーンが面白いとか、そういう要素でみているんです。咲の場合も「キャラの能力」がピックアップされがち(なのともう一つ別の要素があって)、おそらくキャラ単体で見ることはない気がします。
では、どうして松実玄を「推し」と言っているのか、というと。
端的に言えば信仰生活で一番苦しかった時、彼女のある姿を見て立ち上がることができた、という経緯があるからです。
自分は一時期自分の空想世界に溺れて、自己嫌悪の状態に陥っていた時期がありました。
その際に、準決勝戦で苦境に陥る中で「亡くなった母親との約束」という思い出を振り切って、「今はお別れ」する決心をしたシーンを見て、自分もまた空想世界と自分の世界、自己嫌悪に別れを告げる必要があると決心したのです。
そういうわけで、彼女にはただならぬ恩義とある種の約束があるのです。
ところで、その約束の中に自分の世界から抜け出すまではこの物語を見ないというものがありまして。これがあったために、ずっと決勝戦先鋒戦を見ていなかったわけです。
で、メディアを切る決心をする少し前、「空想に頼らずとも自分で生きられそう」と思ったので、続きを見ることにしました。
それを見た時に、玄が頑張っている姿を見ながら、かなりの感情移入をしていることに気づきました。
最後まで諦めず頑張りつつもガチの怪物たちに負けてしまう(…?)姿を見て、本気で「悔しいな…」と思っていますし、同時に「本当にお疲れ様」と思っている自分がいました。
こういうのを「推し」というのだろうな…となんとなく感じました。
おそらく摂理に来なかったら、ここまでの感情にはならなかったでしょう。
(どちらかと言えば、覚醒した玄の能力に強く興味を持っていたと思います)
-ひとまず、私は頑張って空想を抜け出して、自立しつつあります。今まで支えてくれて本当にありがとう。
先鋒戦、お疲れ様でした-
摂理に来なくても、おそらく「好き」だっただろうけど…
今回の松実玄のケースのように、私が摂理に来てから惹かれるキャラの多くは御言葉か、聖書か、鄭明析先生か、自分自身との共通点や経緯があったりします。
その中で、最後に摂理に来なくてもおそらく「好き」にはなっていたけど、その濃度がかなり違っただろうなというキャラを挙げてみます。
そのキャラとは、最近よく話題にしている『五等分の花嫁』の中野四葉です。
まず、なぜ摂理に来なくても「好き」になるだろうと考えたかについて。
私の実家では週刊少年マガジンを雑誌で購読しています。そのため、実家にいる時はマガジンに掲載されている漫画を全部読んでいました。
その関係で、一人暮らしをしているときもマガジンを立ち読みしていました。
ところで、五等分の花嫁は週刊少年マガジンで掲載をしていたわけですから、私が摂理に来て漫画を読まないようにすることがなかったなら、おそらく高確率で五等分の花嫁を連載時に読んでいたでしょう。
この作品は考察要素もかなりあるので、作品単位で見ても私が好きなタイプのものですしね。
ところで、今回私が好きになりやすいキャラが地味だけど可愛い、子供っぽくて純粋そう、一番人気でなさそうという傾向にあることを書きました。
この傾向に当てはめて、自分がもし摂理に来る前にこの作品を読んでいたら…おそらく三玖か四葉が好きなキャラになっていたと思います。もう少し言うと、三玖は読者人気が高いのと(長門有希と同じケース)、似たようなタイプの古明地こいしに対する熱量から考えると一番は四葉になりそうな気がしています。
そもそも、この作品を本格的に知るようになったデュエプレコラボの時点では原作情報がないわけで、そこでなんとなく四葉を選んでるわけですから、信仰を抜きにしても四葉が一番しっくり来るのでしょうな。
余談ですが、この感覚でいうと二乃はおそらく割と苦手寄りだったと思います。
人気が出やすいのと、特に初期の頃(長髪二乃)は私の好みと少しズレていたので…。
これも摂理に来てより心の気質を見ることになったから、二乃の性格の良い部分を見て高くなった感じがします。
話を戻して、私が摂理に来なかったとしても、おそらく五等分の花嫁を読んでいれば四葉を好きになったと思います。
しかし、「推し」になったか、というとそれは違うとも思います。なぜなら、自分との共通点がそこまでなかった(と感じてた)からです。言うなれば、自分の中で「浅い」ものだったと思います。
笑顔や雰囲気、そして(若干不本意ですが)人気キャラとは少し違う、ちょっと外れて目立たない感じ。
実は私の好みの要素が多めのキャラである四葉ですが、私自身が「推し」としているのはそこでなく自分と、またキリストとの共通点を多く持っているからなのです。
五等分の花嫁∽の感想記事でも書いたように、私は自分がやっていることに対する価値をあまり感じられず、自分自身の存在意義が希薄だった、虚無感を抱えながら生活してました。
加えて、自分に対する評価が厳しく、常に罪悪感を持っていました。摂理に来てからは、特に。
これらのことが四葉の物語と大きく重なった、ということが一つ。
また、四葉のストーリーの中で最も重い「好きという感情を押し殺す」経験を自分自身もしていたから、そこに対する感情移入をしていた、というのが一つ。
そして、四葉の話を通して、キリストの「気づかれなくても、愛し続ける」姿を見たというのが一つ。
この話は、次の「推しと信仰の共存」の考察記事で書きたい話ですが、私が最近ずっと聖書を読んでいる一つのきっかけが…神様について知りたいとお祈りした時に四葉が浮かんで、それをきっかけにこのシーンを通しての心情を感じ取ったことなんです。
どれも、摂理に来なかったら得られなかった要素でした。
また、この四葉を含めた五等分の花嫁という作品を通して神様との経緯が多くできた、というのも大きいです。
この間の映画の話でも書いたように、映画を見るまでの間に深くお祈りし、条件も立てて、さらに祈りを通して神様から答えをもらったことが多くありました。
まとめ:私にとっての推しとは「かけがえのない存在」
改めて、私の中で「推し」とはなんだろう、と思った時にしっくり来た言葉が
「推し」とはかけがえのない存在である、何者にも代えられない存在である
ということです。そして、それは摂理に来なければ作られることがなかった、と確信しています。
なぜなら、自分自身が自分の軸を持たず、自分に価値を見出していなかったからです。
摂理に来て、神様を愛するようになって、御言葉を教えてもらうことで、御言葉が自分自身の判断の基準の一つとなっていきました。その御言葉との共通性を見出した時、言い換えると「神様からのメッセージを受け取った時」、そのキャラは「好き」を超えた宝物となったのです。
そして、自分が自分を愛せるようになって、自分を許せるようになるにつれて…不思議なことですが、私の中で「推し」ができるようになったのです。
ここまで書きましたが、私の中で最推しはイエス様です。すべてのキャラはイエス様を軸にして、イエス様との共通性を見出した時により好きになっている、というのを感じています。(自分との共通性を見出し、自分について知るという一面もあるけど)
何より、イエス様と自分との間には深く深い経緯が多くできるようになりました。だから、私にとって「かけがえのない存在」なのです。
摂理に来たことで、「推し」ができた
この言葉を聞くと不思議に思えるかもしれませんが、私の中でこの表現がしっくり来るなぁと思ったので、このように書きました。これもまた、摂理に来てよかったと思えることの一つです。本当に感謝します。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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