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経験をして「何を」悟る?

おはようございます、satoです。
「経験してこそ根本を悟る」という御言葉について一つ気づいたことがあったのでそれを書きたいと思います。

今日は水曜なので夜に礼拝がありましたが、礼拝後に教会の椅子を組み立てるお仕事をしました。
「神様の聖殿にまつわる仕事がしたいなぁ」と思っていた私も喜んで手伝いました。
この椅子はIKEAのものなのですが、最初何も見ないで組み立てようとしたら本当にうまくいかず…みんな試行錯誤しているうちに「これは説明書を読まないと!」と思って読みました。そうしたら正しい組み立て方があったので、それに沿って作成しました。

ここで私が気づいたのは「経験してこそ悟る」と話していたけど、正しく悟るには「知識」が必要だということです。
IKEAの椅子も説明書を見ないまま作ると正しくない形で完成され、あるいは完成形までいかなくてただパーツと「椅子になりきれていない何か」が残るのみなように、「正しい知識」がないまま経験しても、「正しい悟り、認識」には至らないなと気づきました。

極端な例えですが、たとえば「人を殴ればお金がもらえる」という知識を入れて、実際にカツアゲとか強盗とかをやってお金を得たとします。
そうすると「本当に得られたからこれは正しい」と認識してしまうわけですが、実際にはこの行為は犯罪で、成功体験を糧に活動していくと最後には逮捕されて刑罰を受けるようになります。あるいは逮捕どころか反撃されて命を落とす可能性すらあるわけです。

だから、何を知って行なうかによってその人の運命が大きく左右されるわけです。
まず「正しい知識」を得て、それを実践することで「正しく認識」して悟る、そうしてこそより良くなる…つまり正しい知識と正しい経験の両方が合わさって初めて正しく悟るのだと気づいたわけですね。

神様の御言葉は正しい、ということを私たちは信じているわけですが、実際にこれを確信・認識しているのも「教えてもらった通りに行なった」経験によって悟っているからです。
しかし、この「正しい」御言葉を聞いただけで行わなければ「認識」は変化しません。行なって得た「経験」を経て認識が変わっていきます。だから、神様は御言葉を聞いている私たちに「経験してこそ根本を悟る」という御言葉を伝えたのです。

ところで、説明書を読んでから完成に至るまでも何回か間違って「これどうやったらいいの??」ってなりながら、都度説明書を読んで最終的には完成に至りました。
このことを通して気づいたのは

ということです。やはり経験を経て人は色々気づくものですね。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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