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「御言葉を読み返す」ことに抵抗を感じていた理由

おはようございます、satoです。
本日は珍しく深くお祈りをしました。どれくらい深かったかというと、気づいたら一時間も経っていたのか…となるくらいでした。…一瞬「もしかして寝てた?」と疑いました笑
その中で自分が過去できなかったことについて色々悔い改めるうち、あることに気づいたので、今日はそれを記録したいと思います。

私は「御言葉を読み返す」ことに抵抗がありました。
今まで摂理に来て、主日や水曜礼拝で伝えられる御言葉を原稿でもらったり、メモを取ったりしていますが、それを見返すということをほとんどしたことがありませんでした。時々伝えるために、あるいはブログで引用したりするために読み返すことはあるのですが、それくらいです。

「御言葉が好きでないから」読み返さないのでしょうか?
これに対しては「どちらかといえば違う」と答えられると思います。私は御言葉が好きな方です。
御言葉で聞く新しい知識、認識、それが好きですし、それを通して感じられる神様の愛が好きです。
自分の間違っている点を教えてくれるのが好きですし、鄭明析先生の経緯の話も好きです。
「長い時間人の話を聞く」こと自体に苦痛を感じる部分があり、その苦痛がフィードバックされるから御言葉を避けている…という一面はあるかもしれませんが…。

では、なぜ「長い時間じっと聞いている」ことが苦痛なのでしょうか?
よくよく考えるとアニメは割と集中して観ている…というわけではなく、それもじっとしていることが苦痛な部分があります。でも、その負担は幾分か軽減されているようにも思います。
こう考えると元々私は「遊ぶこと」が好きなので、御言葉も同じ感覚で聞けたら良いのではないか?とも思います。
しかし、それとは別の、ある感情も要因になっていることに気づいたのです。

私は「真面目」な人間とは程遠いと感じています。周りからは真面目だと言われていますが、私は遊ぶことが好きですし、ふざけるほうが好きです。真面目な雰囲気になると逃げ出したいくらいです…。
一方で、周りの大人達は「真面目で遊ばず、勤勉な子」を好みます。言うことをよく聞く子を好みます。そのように私は感じました。特に小学生の時に。
だから、「真面目でない、変なことをする」私は特に周りの大人から色々なことを言われました。
それが、私にとっての傷だったのでしょう。

私の経験してきた世界では、人間関係というのは「片方が片方の言うことに聞き従う」支配的な関係が中心だった、と感じています。言うことを聞かないと感情的に怒鳴られたり、悪口を言われたり、見放されたりしてきたように思います。
その中で周りの人達が求めていたのが「真面目で、言うことを聞く」子供…私はそれとは逆な存在だったのです。
そして、それがきっかけなのかは分かりませんが「勉強をすること、真面目にやること」が「支配される」ことと結びついていた…過去の傷を想起させていた部分があったのかな?と気づきました。

支配的な関係しか経験していなかった私にとって「互いを尊重する」神様の愛はどうしても馴染めなくて、今もとてももがいています。
それは過去の傷が癒やされることで成されるのではないか、と改めて思いました。
そして、御言葉を読み返すことにもチャレンジしてみたいです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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