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キツく話すことの真意。

おはようございます、satoです。

もう札幌は雪が降っていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?私は元気に過ごしております。この時期になると自動車学校に行っていたときのある話を思いだします。
あの時も雪が降ってたのですが、ほぼ毎日のように通っていました…できれば高速教習は実車でやりたかったので…。

その日は夜に一つ学科を取りました。内容は「車の死角」についてでした。
自動車には多くの死角があり、映像で見ると本当に見えない危険な個所がたくさんです。
私が路上で運転しているときも、駐車している車の辺りとか、見通しの悪い交差点とか、本当にいつ飛び出してくるか分かりませんし、まだ見落としているところが多いです。
このように生活でも見落としているところで問題が起こるのです…と今ぶつかっている問題を考えながら思いました。

ところで、その日の教官はいつも以上にキツイ言い方をしていました。いつも言い方がキツイ方で、若干苦手気味な教官なのですが…(´・ω・`)
私たちに色々注意を促したのですが、話していたのは何故か「自転車」の話。
そう、自動車に死角がある、ということを言い換えると「自転車に乗っているときに車のそばに来ても、運転手は気づかない」ことがある、ということなのです。
それをいくつかのケースで話をしていたのですが、その時にいつもより、繰り返し、強く注意を促していたのです。
「絶対こうしなさい」と。
私の精神的な波にもよりますが、「絶対こうしなさい」という言葉で過去自分がしていたことと違うことを話されると、すぐに理解できずモヤモヤした気持ちになってしまいます。
切り替えがうまくできないと言いますか、あとは自分の聞き漏らしも多いこととかが由来しています。御言葉の時もそうなので、本当に苦労します…(´・ω・`)

しかし、その直後にポツリと話した教官の一言で、私の心は変わりました。

「実際に、こういう事故で亡くなった教習生がいたんです…」

そう話して、過去に実際に遭った事故のことを話してくださいました。
その人はこの死角の学科を受けたのか、それは分かりませんが…もし聞いていたなら、そしてそれを覚えていたなら防げたはずの「残念な」事故だ、ということ。
最後に、少しいつもより低いトーンで、悲しそうに「だから、こうしよう」と言われたときには、私の心にしっかりと一連の内容が刻まれていました。

なぜ、その教官はあれほど「自転車」の話をしていたのか。
それは、実際に亡くなった人に直面していたからでした。
その悲しさと怖さを分かる人は、より切実に伝えます。

ふと、なぜ摂理の御言葉は厳しく感じられるのか、という方に考えが行きました。
摂理の御言葉は「○○しなさい」「○○するな」という言い方がほとんどです。これは韓国語のニュアンスとか、民族性の違いもあるのですが…。
でも、一番は「そうしない/することで死んできた人を目の前で見てきた」神様だから、なのではないでしょうか。
目の前で愛を注いだわが子を亡くす心情…そして、生きている子に「あなたたちはこうしてはいけない」と話す親の心情。
また、命を救う中で、信仰が破船し神様を離れて苦痛の世界へ行き、そこで苦しみ続ける人をたくさん見てきた主の心情…。

私よりも永く生き、多くの場面を見続けた神様。
救いのために私よりも多くの人に触れてきた主。そして信仰の先輩。
そういう人が話す「キツイ」言葉には、かつてそれをしないで苦しく生きてきた人がいた、その経験があるかもしれません。

今まで「キツイ」言葉を聞くと非常に苦しくなっていた私。
だけど、もっとその言葉に、その奥にある心情に目を注いで、受け入れてみようと考えが深くなった夜でした。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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