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私は本当に人を愛せているのだろうか?

おはようございます、satoです。

昨今様々な事件が起きています。
人が死んでしまったり、炎上してしまったり、様々に心が苦しくなる出来事が起きています。
また、様々な人が人を悪く言ったり、批判をしたりしています。
それらの事件を通して、私は
「果たして、私は本当に他の人を自分と同じように見て、接することができるだろうか?」
と考えました。
極端な話ですが、もしそうできないなら…私も上の事件と同じことをする可能性があります。

もちろん平素の時にはこういうことはしないです。
それは私たちには「理性」があるから、心の中に悪なる感情を持っていたとしても「それはしてはいけないことだ」と思って抑圧されるからです。
しかし、「極限状態」に追い込まれたとき、理性が働かなくなったとき、あるいは理性が通用しないとき…人は「平素心の中にあること」が出てきます。
人に対して怒りを持っている人は「何をしても許される」という時にはその怒りをぶつけるし、悪い感情を持っている人はそのようにするでしょう。

私は、本当に人を愛せているのでしょうか?
自分に近い人とは仲良くできるけど…本当に「その人を神様が見ているのと同じように愛せている」のか、と言われるとまだ足りないと感じています。

少なくとも、鄭明析先生は相手がどういう人かは関係なく、分け隔てなく人に接されます。
かつて、修道生活の際に乞食に対して、その人を自分だと思って「その人の目線まで自分が下がって、『明日があるから、頑張って』と励ましながら、自分のお金をすべて渡した」鄭明析先生。
目や耳が不自由な人、病気の人のために祈られる鄭明析先生。

 どうして鄭明析先生はそのようにできるのでしょうか?
それは、「自分を一人の恋人のように愛する神様の愛」を受けられ、愛の関係を知ったからです。
「私たち一人一人をそのように愛される愛」を分かって、自分の愛を分けてあげたくてそうしているのです。

まずは、私が「神様が愛される愛」を感じて、受け取るところからだなと思います。
その愛をしっかり受け止め、愛の関係が築けたとき…本当の意味で人も、自分も愛せるのだ、と鄭明析先生から学びました。
だから、焦らずに自分を愛で受け止め、作っていきたいです。

 

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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