おはようございます、satoです。
長年続けているブログ。今年は毎日更新を続けていますが、更新するだけで「何を伝えたいのか」をハッキリさせないと身のないブログになってしまいます。
…最近は自分の問題もあって、ブログの毎日更新を死守する以上のことができていなかった気がしてます。
そもそも私はどうしてブログを書いているのでしょうか?どうして私はブログを書きたいと思ったのでしょうか?
このことを改めて考えてみましょう。
私は「文章を書く」ことが比較的得意です。
少なくとも「人と話して伝える」ことよりは「書く」方がしっかり伝わる感じがします。
そして、それ以上に「人を誘って呼ぶ」よりは「自分が作ったもの、発した言葉などに共感してくれて自ら来る」方がとても負担なくできます。
だから、私は文章を書いています。
私が摂理に来てから、「神様の愛」を伝えたいなという感動はずっとありました。
神様の心情の流れそのままに、語り掛けるような物語。
あるいは、私が感じた神様の愛。
それを…昔見たニコニコ動画の影響で「動画風に」することもありました(笑)
摂理内で実際に動画を作成されている人もいます(*‘∀‘)
私はいろいろな意味で「絵」より「動画」より「文章」が合っています。
いつも浮かぶのは動画で、それを文章で表現するときは本当に苦労しますし、発狂しそうな時もありますが(笑)
でも、こういうことを毎日鄭明析先生がされていることを思うと、本当に「言葉にならないものを言葉にする大変さ」とか「御言葉を毎日書くことの大変さ」を(数万分の一ですが)感じます。
そういった「自分の悟り」とか「神様の愛」を伝えたくて、このブログを続けているのでした。
そして、そのためなら「私の弱さ」とか「できないところ」とか…「人に見せられないこと」も見せます。
そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
口語訳聖書 コリント人への第二の手紙12章7-10節
だから、私は「神様の愛」を、その心情を感じられるように今日もブログを書くのです。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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