おはようございます、satoです。
摂理に来てから立てた目標の一つに「信仰も数学も『楽しんで』行えるようになる」というものがあります。。
それに関連して、「自分がやると決めたことは『好きでしている』という考え」を意識していたことがありました。
背景として、鄭明析先生の次の御言葉があります。
『主が任せた仕事を誰かに言われてではなく本当にやりたくてやっているから、そう思って、負担を感じないでほしいと言うような人が「自ら行なう人」です。これが「黄金のような実践」です。』
実際、鄭明析先生も聖書を読み、祈り、神様に願い求めること、聖三位に仕え愛することを「誰にも言われず、自ら喜んで」されました。
また、月明洞の開発をされているポンソク牧師もいつも「自ら喜んで、やりたくてしている」と話されています。
これを聞いて、私の中で「これだ!この精神が欲しいっ!」と思いました。
そこで、自分も色々自分がやると決めたことや使命に対して「好きでしているんだ」という考えでやることにしてみました。
もちろん、はじめは人に「やってみない?」と言われてしたこともありますが、最終的には自分が「これをする」と決心したことなので、やはり「自分がしている」ことなのです。
そういうことで、「自分が好きでしている」という考えのほうが実際にやっていると楽しいのです。
たとえば、私は聖書を読んだり、御言葉を読み返したりしていたのですが、この時に「自分のものにしよう」と思いつつ、自分が好きでしているんだって考えながらやってみました。そうするととても楽しくできました。
また、人を助ける時もいつもなら「そうしないと失敗してしまうから、綺麗でないから」という考えでしてしまいます。だから、どうしても人に反応を求めてしまうし、少しイライラしてしまいました。そして、そんな自分に対して嫌な気持ちになりました。
ところが、ある時「自分が好きでしているのよ」って意識しながらサポートをしてみました。そうしたら心がとても嬉しく、楽で、楽しかったのです。人の見返りを求めることも、苛つくこともありませんでした。
突然何かを頼まれて、それを引き受けた時も「自分が好きでしている」って考えるだけで心が楽になりました。突然のことには対処できない私ですが、自分が好きでしているって考えるだけでこんなに違うものか…と驚いています。
自分が好きでしている、ということは言い換えると「自分が主体となって行う」ということです。
何事も人にやらされるよりは自分が主体となって行うほうが楽しいし、やり甲斐を感じるものです。そういう時は、本当に環境がつらくても、嫌なことがあっても気にならないものです。
この経験を振り返ると、最近この心が不足していたなぁ…と反省しています。
どうしても自分の気分が落ち込むと「やらされている」と思ってしまったり、ひどい時には「自分からやっている、と思い込まされてコントロールされている」と考えてしまうことがありました。
改めて、特に信仰については「自分が好きで、選んでやったことだ」と考えながら、後ろを振り向かずに頑張っていきたいなぁと思います。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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