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摂理人の新たな挑戦、「聞く」ってどうするの?

こんばんは、satoです。

昨日の水曜礼拝の御言葉の中でこのようなことが書かれていました。

これからは説教の時は「書くこと」より、よく聞いて脳に核を入力して「理解」することを願います。-2016年2月17日水曜礼拝の御言葉「変化は偉大だ。極だ。熱心にやりなさい。」より

御言葉を聞いていると、ちゃんと記録しようと書くことに没頭してしまうことがあります。これは一見熱心に聞いているようですが、書いている間に伝えられている御言葉は聞けず頭に入っていない、ということが多いです。
その結果、書き終わる頃には流れがわからなくなってしまって、うまく御言葉が理解できなくなる、ということになってしまいます。…私も心当たりがあります(´・ω・`)
そういうわけで、礼拝で御言葉が伝えられている時には御言葉を書くことより聞くことに集中して、その場で理解して欲しい、というのがこの御言葉の背景です。

実際、昨日御言葉を書かずに聞いた時には流れ、感覚はしっかりとつかめていました。確かに、書かずに聞いたほうが流れは途切れないのです。

が。

実は私耳を介しての情報のインプットはかなり苦手なのです。おそらく発達障害の傾向にある脳の問題なのだと思いますが。
まず、聞き漏らしがあります。そして、聞いてもすぐに理解することはほとんどできません。というか、インプットすらまともに出来ません…。あまり頭が働いていないのです。
これは御言葉に限ったことでなく、ゼミで先生が話していることを聞いてもあまり処理ができません。
よく理解できない時は聞き返したり、話をするようにして何回も話をしています。しかし、それは一対一とか対話が出来るときの話。
説教のような「一方的に聞く」状態は、かなり苦手なのです…。講義とかも、最後には集中力も切れてしまいます。たとえそれが興味のあることだとしても…。

AD/HDの特性上「注意が逸れやすい」私は、何かしらの動きをしたほうがストレスが減ります。だから書くことをしたりしています。

と、ここまで書きましたが。
もしかすると、人の話を聞く「頭の動かし方」が異なるのかもしれません。神様が願う「聞く」というのは私の考えと異なるのかも…。
何を言っているのか、私にも分かりませんが…。

もしかすると、聞くというのは「脳で情報を処理する」というより「言葉の感覚、心情を掴む」というのが大事なのかも…。
私は基本「言葉」で処理しようとするけど、もしかしたら、言葉でなく「そこにある神様の心情に共感する」というのが大事なのかもしれません。
実際、今日の明け方の御言葉を聞いている時に「神様の気持ちに共感している」自分が居たのです。言葉ではあまり処理できていないし、頭に残っているわけではありませんが(´・ω・`)でも、確かに「その通りにしよう」という自分がいました。
もっとも、これは昨日私の根本的な問題の一つが解けて、一層集中できるようになったからなのかもしれませんが…。

よくよく考えると、昔は御言葉を聞いてもほとんど頭に残っておらず、感覚もつかめていない感じでした。
というか、話している言葉をキャッチして書き取ることすら出来ませんでした。それに比べたら、今の状態は確実に成長してます。

そう考えると、今後「御言葉を聞きながら共感できる」ようになるその日も遠くはないのかな…と希望に思いつつ、続けて聞くことに挑戦したいと思います(^o^)

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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