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15日間の栄光期間の最後に強烈に感じた『神様の私への愛』

おはようございます、satoです。
2022年が始まってから半月となりますが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
私は……全部において完璧だとは言えませんでしたが、実は1つ15日間継続して神様に捧げたものがあります。
今日はそれを通して得られた悟りについて書こうと思います。

15日間特別にやったこと

まずは、15日間やったことなのですが…。

実は一昨年から私は『バーチャルYouTuber』としても活動し…ようとしていました。
具体的には一昨年に感動があって、なんやかんややって自己紹介動画を作りました。

それが、こちらです

ところが、2020年の年末に1つ動画を作ってから…2021年は1つも動画をアップすることができませんでした。
2021年もいくつか色々企画を考えて、撮影をしたものもありました。
しかし、信仰の状態が芳しく無く、それに伴って精神状態もかなり良くない状態が続いた結果、編集するところで力尽きてしまった…というのが動画をアップできなかった理由です。

そこで、一旦信仰の立て直しをするために活動を中止し、祈りと御言葉で自分の生活をしっかりとすることに集中しました。
その結果、2021年末にはかなり安定した状態になりました。

ところで、摂理では毎年の初め、元旦から15日まで特別に『神様に栄光を帰す期間』があります。
私達が生きて、幸せに生きられることに感謝し、生かしてくださった神様に栄光を帰す、というのが趣旨です。

聖書においても、神様を信じ、愛する人は神様に多く栄光を帰していました。特に有名なのはダビデですね。

6:12しかしダビデ王は、「主が神の箱のゆえに、オベデエドムの家とそのすべての所有を祝福されている」と聞き、ダビデは行って、喜びをもって、神の箱をオベデエドムの家からダビデの町にかき上った。 6:13主の箱をかく者が六歩進んだ時、ダビデは牛と肥えた物を犠牲としてささげた。 6:14そしてダビデは力をきわめて、主の箱の前で踊った。その時ダビデは亜麻布のエポデをつけていた。 6:15こうしてダビデとイスラエルの全家とは、喜びの叫びと角笛の音をもって、神の箱をかき上った。

サムエル記下6章12-15節

神の箱とは、神様との約束、守るべきモーセの十戒が書かれた石版の入った箱のことです。
ダビデは、この十戒の入った箱がダビデのいる街に来た時とても喜びました。そして、自ら進んで踊り賛美と栄光を帰しました。

このように、鄭明析先生が「神様を信じる人がもっと神様に栄光を帰そう」とこの15日間を特別に神様に栄光を帰す期間として定めました。

教会でも、自分でも、なにか決めて神様に栄光を帰すということをします。私もせっかくなのでこの復活した自分が、感謝の思いを伝えるためにも、1つ何かやろうと思いました。

そこで2022年の『神様に栄光を帰す期間』、私は、バーチャルYouTuberとして、15日間動画をアップしてみよう、せっかくだからお祈りをしようと思い至りました。

そういうわけで、1/1から早速動画をアップしました。

1/1のお祈り動画です。

毎日、明け方の礼拝で伝えられる御言葉を聞いて受けた感動に合わせて祈ったり、時には全く異なる感動を受けて祈ったり、色々やってみました。
明け方の礼拝後、いつも休んでいましたし、仕事が始まると朝早く出ないといけない時もあって続けられるか不安でした。

また、生活リズムが少し崩れたことと、Twitterを再開したのですが、それをうまく使えなかったことで、頭が疲れてしまって集中できなかった時もありました。特に最後は…。

1/14のお祈り動画です。この時は自分も頭が疲れてしまっていました…。

そんな時は、いっそ自分と同じように疲れてしまっている人のためにお祈りしようと思ったのがこの14日目の祈りです。

実際、この日は力を受けて仕事が終わったあと「よく頑張った自分!」と言えるくらいには元気でした。(仕事が割とイレギュラーだったのですが、なんとかうまく対処できたこともありました。本当に神様に感謝します)

15日の祈りを終えて…

1/15のお祈りです。明日も大学入学共通テスト頑張ってください

そんなわけで、本日1/15まで、毎朝お祈り動画をアップすることができました。
(明日からも続けてお祈り動画はアップしていこうと思っていますので、よろしくお願いします)

しかし、正直言うと考えが安定せず、考えが暴走しかかっていました。
この状態はまずい…と思いつつギリギリのところで持ちこたえていたのですが、その時に「より積極的に御言葉を聞いて、栄光を帰そう!御言葉を聞く時がチャンスだ!」と思って、御言葉を聞いたのですが。

その時に、自分自身の課題として『神様が自分を愛してくださっている。それも、何があっても絶対』ということを常に確信する、というところが見つかったので、早速このためにお祈りをしました。その瞬間浮かんだのが

イエス様の十字架、でした。

3:16神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 

ヨハネによる福音書3章16節

なぜ、イエス様が十字架に掛けられたのか。
それが他ならぬ、私のため、私が生きるこの時代までこの御言葉を届けるためである、ということを強烈に感じました。
その感じ方は、瞬間映像としてイエス様を通しての神様の愛が見えるくらいでした。

これまでの聖書の歴史は、全て神様が私を愛して、出会うために、成されてきたのだ…と感じるほどに、強烈に。

私も「イエス様の十字架のおかげで、今私はここにいる」ということを知ってはいました。しかし、それを受け入れることができませんでした。
我欲、不安、自責…これらが邪魔をしていたのです。

しかし、今日私はこれらを全て置いて、まずは神様が愛してくださっている、このことを絶対に受け入れようと決心しました。
そうやって、私はようやく、神様が私を愛してくださっている、絶対的な根拠を得たのです。

再び、この感動が薄れるかもしれません。
でも、イエス様の十字架を、その先の歴史を振り返るたび「それが、神様が私を愛してくださった証拠だ」と思い出せる、はずです。

15日間の小さな条件の上に、足りない私に大きなことを悟らせてくださった神様に心から感謝します。
もっと、神様の愛を完全に受け入れ、自分をよりよく変化させていきます。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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