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適当=楽≠楽しい、真面目≠楽しくない

こんばんは、satoです。

人生、楽しく生きたいですよね。
たぶん、ほとんどの人は「苦しんで生きる」より「楽しんで生きたい」と思うでしょう。
ところで、どうやったら楽しく生きられるのでしょうか?

最近、なんとなく、適当に生きる人が多くなっています。私もその一人です。
ある程度のことは真面目にやりますし、その場で人が見ているときにはきっちりやろうとするのですが、一人でいるときには本当にだらーっと生きていました(´・ω・`)
たとえば、勉強していたらいつの間にか中断してたり、ネット見て時間をつぶしていたり、ダラダラ寝ていたり…。
また、人生に対しても何の目的もなく、ただ時間が過ぎていくだけの生を生きていました。
そうしたら、いつの間にかそのスタイルが体質になって、頑張ろうと思っても苦しくなってしまいました。

実際、なんとなく、適当に生きる人生って「楽」なんですよね。
でも…実りは少ないです。正直言って。
楽しさも実際のところはあんまりないです。ハッキリ言って。

「楽」と「楽しい」、同じ漢字を使うけど、この二つは同じものではありません。
楽に生きる生が、楽しい生というわけではないのです。
実際はちょっとでも苦労した方が楽しくなります。

適当な生の反対は「100%、完全に生きる」生。
100%を常に目指し、妥協しない生。真面目な生。
この生は「楽しくない」のでしょうか?実はそうでもありません。
完全に生きるからといって「楽しんではいけない」というわけでもないのです。

色々すべきことだけをして、やることが縛られていて、窮屈そうで楽しくなさそうに見えますし、笑ったら隙ができる、と思って笑ってもいけないのか…と考えるかもしれませんが(私がそうでした(´・ω・`))
実際のところ、すべきことを「楽しく」してもいいのです。むしろ、楽しみながらする方がいいです。
神様がそこにいるなら、何をしても楽しいのです。勉強しても楽しい。仕事をしても楽しい。
ただ、楽しい時「自分が勉強をしているから、仕事をしているから楽しいんだ」と思って続けて勉強や仕事ばかりをしていたら苦しくなってきます。それはいつの間にか「神様」を忘れて一人でしているから。

実際、例えば数学の研究においては「まず自分の手を動かす」ことから始まり、一つの仮説を立てて、それを検証していくうちに段々と証明の形が見えてくる、というのは非常に楽しいです。
最初は「手を動かせない」のでかなりしんどいですし、時には手を動かしてもヒントが出てこなかったりして進まないこともありました。そうやって何度方向を変えたかはわかりませんが、この時ははっきり言って楽でないですし、苦しいです。
しかし、最近は「このパターンは成り立つ、ではそのパターンを外したこの例では?」とやっていくことで段々と形が掴めてきたように思います。
四葉の雪だるまを作っていた時もそうでしたが「何かを作る」ことそのものが楽しいのだと思います。

こう書いていますが…私はまだまだ昔の「適当に生きる生、何かを見ている生」に慣れてしまっていて体質が変わっていません(´・ω・`)
ちょっと書くの恥ずかしいくらいですが…まぁ、恥はかき捨て|д゚)
それでも、昔よりはすべきことの楽しさを見いだせてきているし、なんだかんだで楽しくできるようになっているから感謝です。
自分の脳の中にある昔の考えと感覚を、新しく若々しい感覚に取り換えていきたいです(*‘∀‘)
御言葉があって、若い人と接することができるからより感覚が変わりやすい摂理。(私もまだまだ若い|д゚))
この場所にいられることに感謝して、もっと自分を若々しく、勤勉に変えていきたいです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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