おはようございます、satoです。
ある明け方の礼拝で、鄭明析先生のこんな箴言を聞きました。
一人でいる時、自分をもっと悟る。
一人でいる時、相手をもっと考えるようになる。
<一人でいる時>人生を生きる味と、<多くの人たちと一緒にいる時>人生を生きる味とが異なる。
一人でいる時はちょうど祈る時間と同じで、神様をもっと呼び、考えるようになる。
静かな時、神様がもっと働きかけやすい。-2017年2月8日鄭明析先生の明け方の箴言より
確かに、私自身の信仰が深まったときというのは「一人で神様と向き合う時間」であったことを思い出します。
自分が信仰の壁にぶつかり、もがいていた時にしたことは「一人で自分と向き合い、神様に疑問をぶつける」ことでした。
自分は昔から一人で考え、一人で思想することが多く、それによって深い理解をしてきた、ということがあります。
それが摂理に来て、神様のことを知って正しい方向に行ったということでしょう。
数学研究もそうでした。
私は同年代の人で同じような研究をしている人がいなくて、また教授のもとでセミナーをするときも一人でした。
当時は「他の人と一緒に出来れば教えてもらえるかもしれないのに…」と考え、心がくじけてました。
しかし、何故か一人という状況は変わりませんでした。
また、摂理の中でも数学研究をしている人はほぼいませんでした。本当に私一人くらいなのではないか…というくらいでした。
最近になって、何人か数学研究をしている人に出会えたのですが。(参考:摂理メンバーとは~数学系の男性社会人~@摂理de結婚~神様の祝福に感謝~)
どうして一人なのだろう…と考えたことはたくさんありましたが、結局一人でしたことによって「自分と神様との経緯」が数学においても増えましたし、数学研究を通しても神様との愛・信仰を作ることができました。
また、数学研究自体も深く理解することが出来、昔より数学の理論が自分のものになった感覚がします。
現代において、代数幾何学という分野を一人で革新させた数学者Grothendieckは自伝の中で次のように話しています。
この時私は孤独の中で数学者という仕事の基本が何であるかを学びました-『数学者の孤独な冒険』より
Grothendieckは高校から大学に入るまでの間に「体積とは何か」という基本的な問題をずっと考えていました。実に三年もの間。
それまでに見た教科書にも、学校での教室でも「体積とは何か」についての答えがないように感じたからなのだそうです。
結局三年後に彼は自分の理論を作りました。それはかつてルベーグが作り出した測度の理論と一致していました。このことを「自分はもう答えのある問題を考えて無駄にした」と考えることもできますが、彼はそう思わず、上のように話していました。
別のところにはこのようにも書いています。
私が言いたいつながりとは、…ある「素朴さ」、あるいは「無邪気さ」によるものです。…[この傾向は]自分自身の目でもって事柄を見る(しばしばまわりからあまり評価されない)によって表現されるものです。…これを孤独であるという才能とも呼ぶことができるでしょう。
人の言葉に囚われず、自分自身の目を持って確かめる、ということ。
確かに子供のときには様々な疑問を自然に持っていたと思います。「どうして雲は浮かんでいるのか」、「どうして飛行機は飛ぶのか」など、素朴な疑問を。
しかし、それについて「自分自身が理解できるまで」考える、ということはあまりしたことがありませんでした。摂理に来るまでは。
一人である、ということは神様と向き合い、疑問に真剣に向き合う最高の機会、といえます。
そして、実を言うと生活の大半は「一人」で過ごしています。特に自分がしなければならないことをするときには、人はだれも手出しできません。
その一人の時間を、大切にしていきたいです。
その瞬間が、神様との経緯を深め、自分を作る最高の機会だから。
この記事を書いたブロガー
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「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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