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自分と向き合うことについて。

こんばんは、satoです。

今日は自分との向き合い方について書きたいと思います。

摂理の御言葉がつらい。

私は摂理に来てからしばらく経ってとてもつらくなりました。
それは色々な原因がありますが、根本的には摂理の御言葉を受け入れることが出来なかったからでした。

摂理の御言葉は神様からの御言葉です。よって、神様の心情に近い人、神様と性格が似ている人がもっと御言葉に共感できます。具体的には自分は愛されている、存在してもいいと思っている人、憎しみがない人、神様が好きな人、もっと良くなりたいと願う人…などです。

そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。

わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。-マタイによる福音書5章2-13節

私はどちらかと言えば…自分が良くなりたいという気持ちもありましたが、根本的なところで諦めていたところがあったので人生の目的もなく、怠惰で、素直な部分もあったけど心の中に憎しみや不満、怒りが蓄積していました。何より摂理に対して不信感を持っていましたから、御言葉が入りにくいわけです。

御言葉というのは不思議なもので、御言葉を聞くと、まるで鏡に映されているかのように、自分がわかるのです。
たとえば、自分がどういうところで躓いているのか、どういうところがイヤなのか、逆にこういうのは好きだな、とか。

しかし、そういう自分を無視して摂理に居続けるとある点で壁にぶつかります。それは摂理では「自発的に行なう」ことが推奨されているからです。これは大事なことなのですが、摂理には強要がありません。(これについては後述します)だから、ある意味「その場で言われたままにすればいい」というその場しのぎのやり方をしていた私にとっては非常に苦しかったところがありました。

正直、摂理から脱会しようか…なんて考えたこともありますが。
ただ、私の場合最初の方は「ちょっと怖くて」、中盤になると「どう考えても私が悪い」とか「摂理から抜けたところで、もっと良くなるとは思えない」という認識があったので、ずっと摂理に居ました。私が悩んでいた問題というのは研究がうまくできない、生活リズムがうまく出来ない、自分がすべきことをしていなくて辛くなっている…という摂理でなくてもちゃんとすべきことができていないということが多かったのです。

「自分と向き合う」

自分がどうしてうまく出来ないのか。
自分が何かおかしい気がする。

そんな漠然とした感覚から、色々探しているうちに摂理に来て3年目のある時、一人の人と出会いました。
その人のことはちょっと知っていて、その人が書いた記事を読んだことがきっかけで「自分が発達障害なのか?」という考えが湧いたのです。その関係もあって色々お話をさせていただきました。

その方には発達障害の話というよりメンタルヘルス関連の話をしていたのですが、色々私のエピソードを話しているうちに

発達障害に関する本を読んでみることをお勧めします

とハッキリ言われました。それが、私と発達障害の出会いでした。が、この話はまた別の機会に。

その方とはその後もしばらく相談させていただいたのですが、特に話をされたのが心の回復ということです。
簡単に言うと心が健康な状態でないと御言葉を聞くことができない。だから、自分としっかり向き合って過去の辛かった経験を回復させていくということです。

その後、幾つかのことをしました。私がしたことはどうして自分がこんなに苦しいのか?自分がこういう感情を抱いているのはどうしてか?と原因を模索することでした。最初はかなり的はずれなことが多かったのですが、お祈りしながら、その時その時の感情を告げることで次第に神様との距離を近めることができました。

たとえば…先程摂理には強要がない、という話をしましたが。
私の場合御言葉が強要されているに聞こえてしまうということがありました。一言で言うとどういう風に聞いても、「結局、それをしてほしいってことだよね?」と聞こえるということです。
そういうのを「マインドコントロール」と表現する人もいますがね…。

私の場合、これは自分が卑屈になって、神様に対して警戒心を抱いていたとか摂理=カルト」という認識が完全に変化できず、その認識で聞いていたとか、様々な問題がありました。そして、その裏には、不思議な事ですが家族との関係や過去の人間関係の失敗、いじめなどの辛かった経験を抑圧していたということがありました。

本来、人間関係というのは「お互いがお互いのことを理解し合う」ということを繰り返す中で自然と構築されていくものです。
ところが、私の場合は一方的に嫌なことを言われたり、相手の気に入らない発言をするといろいろ言われたり…ということがありました。これが今ならある程度距離を置くことだってできますが、当時はまだみんなと仲良くしなければならない、とか相手を悪くさせてはいけないという思いが強く、自分が我慢することが多かったです。

また、おそらくですが学校での様々なストレスを親に話すことはあまりせず、ひたすらゲームやテレビを見ていたことでストレスがそのまま残っていて、自分の心を歪ませていた、ということがあったと思います。
今にして思えば、学校に行く前日に「死にたい…死んで学校休めないかな」と考える状態って、普通じゃないですよね。原因は宿題が見つからなかったり、無くしたものが見つからなかったりして、学校に行ったら当時の学校の担任に怒鳴られるからなんですが。

私が小学校の頃、様々なことで怒鳴られました。今では問題となるような体罰もありました。
その原因の大半が発達障害の傾向から来るものなのでしょうが…当時はそこまで認知されていなかったので仕方のない部分もあるでしょう。また、私の弟によると、厳しくするのにはその先生なりの理由があるということがわかったので、今ではなんとか許せる部分もあるのですが。ただ、このことがショックで、後に先輩とか上の人に対して「逆らってはいけない」ということが根付いた気もします。(ちなみに摂理では、指導者と呼ばれる人が高圧的態度を取ることはありませんし、厳しく注意されます。むしろ、指導者である人ほど、もっと良くしてあげなさいとおっしゃいます。そして、鄭明析先生ご自身がそうされています)

この辺りが、私にとって「御言葉が強要に聞こえる」という部分の原因になっているわけです。たぶん。

こんな感じで自分の過去の経験を話しながら、少しずつ自分について理解していくことで自分を治めることができるようになります。そして、この部分に対して神様がどう思っているのか、その心情と愛を受けることによって、心の問題が解け、一つ一つ御言葉が聞こえてくるのです。

今週はこういった「心の回復」に関する話をしながら、摂理の御言葉の価値を考えていきたいと思います。どうぞお付き合いください。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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