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鄭明析先生と「肝が潰れる」ほどの愛。

おはようございます、satoです。

今日はこちらの聖句についての話をします。

イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。

口語訳聖書 ルカによる福音書10章30-36節

これは「よきサマリア人のたとえ」と呼ばれる有名な聖句です。簡単に言うと、ある人が死にかけていた時、神様を信じる人とされている祭司やレビ人は通りすぎたけど、異邦人とされていたサマリヤ人が憐れに思って彼を介抱し良くしてあげた、というたとえです。
これを通してイエス様はこのサマリヤ人のようにどんな人でも自分の隣人として愛しなさいと話をされたのでした。

ところで、この中で太字にした「気の毒に思い」という箇所は新共同訳では「憐れに思って」という表現になっています。
これに関して次の記事を見ました。

聖書からたどる共感(empathy)・同感(sympathy)・同情(compassion)の語源と違い ―サイコパス・インサイド読後感想その1

この記事の中に「憐れに思って」という表現に対する考察がありました。
聖書を出来る限り原典に近い形で訳そうとしている本田哲郎さんというカトリックの神父がいまして、その方がこの聖句をこのように訳しました。それに対する感想と合わせて引用します。

本田神父がこの部分をどう訳したかというと、「はらわたをつき動かされた」だった。素晴らしい訳だと思う。

現在最も流布している日本語訳の「憐れに思って」など全くもってヌルい。キリストの愛や憐れみは、そのような余裕のある、距離や高さのあるところから施しをするような態度ではなかったと思われる。

私はこの話を聞いて、衝撃を受けました。
隣人を愛するということは「他人にそのように接する、可哀想に思う」というイメージを持っていましたが、そうでなく自分のことのように、その人のことを考えるという次元のものだ、と話していたのだと分かりました。

そうして、私はある御言葉を思い出しました。

新約歴史が来て、新約のメシヤ、イエス様が生きていて歴史を広げていったとき、旧約人たちはあまりにもイエス様を迫害し、悪評を言い、敵対視し、犬畜生のように見くびり、やきもきさせ、肝が潰れるようにさせ、脳をえぐり出す苦痛を与えました。

2014年3月9日主日礼拝御言葉「脳に火がつくほど味わったなら、味わったとおりに、胸がスッキリするように表現して話し、胸がスッキリするように証し、行ないなさい。」より

摂理の御言葉では、肝が潰れるという表現がしばしば出てきます。
切実にお祈りするときとか、心情を吐露する際に「肝が潰れるほど」と表現されることがあります。
この肝が潰れるという表現が、今の「はらわたをつき動かされた」という表現と重なっています。

イエス様が生きた3年半、上の御言葉にあるように多くの迫害と困難の中、傷ついている人がいたら「自分が傷ついた」と思って、助けずにはいられませんでした。
たとえユダヤ教の人々から迫害されたとしても、取税人や娼婦など社会的弱者を助けたのはそのような「はらわたをつき動かされた」ような心情を受けてつき動かされたのです。
それを私が知ったのは、鄭明析先生がまさにそのような生を生きて、御言葉を伝えられたからです。

精神がおかしくなった人を見かけて、自分の兄弟のように体を洗って一緒に寝てあげ。

乞食を見たら、「その人に寄り添って」なけなしのお金を与え。

自分が死にそうな戦場でも「愛しなさい」という神様の御言葉を実践して、目の前にいる銃を向けている人を抱きしめ。

はっきり言って「命がけ」で生きてきました。
私がイエス様の本当の姿を知ったのは、こういった土台の上に伝えられた御言葉があったからです。

神様の愛は、高貴な愛であると同時に、ある意味泥臭い、熱烈な愛です。
その神様の愛を実現することは並大抵のことではできません。イエス様の生はそのような「命を掛けた」生だったのだ、と先程の「はらわたをつき動かされた」という表現を通して思い出しました。
イエス様がそうされたように、また鄭明析先生がそうされたように、私もそのような生に挑戦していきたいです。

この記事を書いたブロガー

sato
「素直に、深く、面白く」がモットーの摂理男子。霊肉ともに生粋の道産子。30代になりました。目指せ数学者。数学というフィールドを中心に教育界隈で色々しています。
軽度の発達障害(ADHD・PD)&HSP傾向あり。
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